務を持っていた。「H・S会社」は会社の[#「会社の」に傍点]雑誌として、「キャン・クラブ」を定期に発行していた。それは何処の会社でもそうであるように、編輯《へんしゅう》には一人の職工をも加えず、集った原稿は社員だけで勝手に処理し、更に工場長が眼を通して、会社の利益に都合の悪いものを除ける。こういう御用新聞の持つ欺瞞的な記事、逆宣伝、ブルジョワ的な教化に対して、「H・Sニュース」は絶え間なく、抗争し、暴露し、それを逆に利用して「鼻をあかして」行かなければならなかった。
「キャン・クラブ」に投稿するには匿名《とくめい》でもいゝので、表立って云えないことをドシ、ドシ書いてくるらしかった。
 ――こんなことを考えている職工が居るのかと思うほど、凄いことを書いた原稿がくるんだ。と編輯をしている社員が云っている。
 それがウソでないことは、河田も知っていた。Y港に帝国軍艦が二十数隻入ったことがある。旗艦である「陸奥」はその艦だけの「新聞」を持っていた。新聞はこんなに色々な場合に使われる! その編輯をしていた士官が、「原稿は余るほど集まるが、いゝ原稿が無いんで――埋合せに大骨だ。」と云っていた。「兵卒ッて無茶なことを書くんでね。」
 河田はそれを聞いたとき、思わず俺の眼がギロリと光ったよ、と石川に云ったことがあった。
 ――帝国軍艦だぜ! 喜んだなア、中には矢張り居るんだ!
「ニュース」はその「凄いこと」を書く奴を、その「無茶なこと」を書く奴を、砂の中に交っていても、その中から鉄片を吸いつける磁石のように吸いつけなければならなかった。

 三カ月すると、女工で集会に出てくるのが四人になった。男の方より一人しか少なくなかった。
お君と芳ちゃんがその中心だった。――「H・Sニュース」は、それで用心深く九枚しか刷られなかった。「集り」で、女工たちにちっとも退屈させないで、面白くやってのける鈴木がみんなに喜ばれた。
 ――鈴木は最近馬鹿に積極的になった。
 と河田が云った。それから、
 ――女がいるからかな?
 と笑った。
 仲間が一人増せば、ニュースは一枚だけ増刷りされた。集会にきている職工たちから、「手渡し」で見当をつけた一人に渡された。――白蟻のように表面には出ずに、知らないうちに露台骨をかみ崩していて、気付いた時にはその巨大な家屋建築がそのまゝ倒壊してしまわなければならなくなる白蟻を、そのニュースは思わせた。
 ――これからの運動は、街へ出てビラを撒いたり、演説をしたりすることではないんだぞ。
 河田は少し意識のついた若い職工が、ジリ/\し出すのを見ると、それを強調しなければならなかった。
 ――これからニュースを五年続けてゆく根気が絶対に必要なんだ。
「H・Sニュース」には安部磯雄と専務が握手をして、後手でこっそり職工の首を絞めている漫画が出た。「狐会議」が開かれている。大テーブルを囲んで、狐の似顔にされた工場長以下職長、社員が、職工に「馬の糞」の金を握らしている。それが「工場委員会」だった。「共済会」の基金や「健保」の掛金が何処にどう、誰の利益のために流用[#「流用」に傍点]されているか。――香奠《こうでん》や出産見舞に職工が一々「礼状」を書かせられて、食堂の入口に貼られるカラクリが嘲笑された……。
 そのどれもが、会社を「Yのフォード」だと思っていた職工を驚かした。

          十六

 ――嫌になるな、君。お君と河田が変なんだぜ。
 集会の帰り、鈴木が不愉快げに云った。森本はフイに足をとめた。――彼は前から、工場でもお君にキッスをしたというものが二人もいるのを知っていた。然し、それは如何にもあの[#「あの」に傍点]お君らしく思われ、不思議に気にならなかった。が、それが河田と! と思うと、彼は足元が急にズシンと落ちこむのを感じた。
 ――河田ッて、実にそういうところがルーズだ。
 ――…………。
 然しそういう鈴木が本当はお君を恋していた。彼は自分の「最後の藁《わら》」がお君だと思っていたのだった。彼はもう警察の金を二百円近くも、ズル/\に使ってしまっていた。彼は自分の惨めさを忘れなければならなかった。あせった。然しそのもがき[#「もがき」に傍点]は彼を更につき落すことしかしなかった。足がかりのない泥沼だった。――そして、今、彼は最後のお君までも失ってしまった。何んのために、自分は「集会」であんなに一生懸命になったのだ! ――こうなって彼は始めて自分の道が今度こそ本当に何処へ向いているかを、マザ/\と感じた。夜、盗汗《ねあせ》をかいたり、恐ろしい夢を見るようになった。
 四五日してからだった。
 ――芳ちゃんが、とても誰かに参っちまってるのよ。
 とお君はいたずらゝしく笑った。
 ――そしてクヨ/\想い悩んでるの。それアおかしいのよ。で、私云ってやったの。あんた一体「お嬢さん」かッて。月を見ては何んとか思い、花を見ては……なんて、お嬢さんのするこッた。思ってることをテキパキと云って、テキパキと片づけてしまいなさいって、ね。
 ――君ちゃんらしいな!
 と森本は淋しく笑った。
 ――そんなことで、仕事がおかしくなったら大変でしょう。私その人に云ってあげるから……キッスして貰いたかったら、キッスして貰おうし……そしたら仕事にも張り合いが出来るんでないの、と云ってやった。そしたら、とてもそんな事、恥かしくッてと。――どう?
 お君は遠慮のない大きな声を出した。こういう云い方が、みんな河田から来ているのではないかと、フト思うと、彼は苦しかった。
 ――恥かしいなんて、芳ちゃん何だか、お嬢さん臭いとこあってよ。
 お君を男にすれば河田かも知れない、森本はその時思った。――河田が若し恋愛をするとすれば、それは「仕事と同じ色の恋」をするだろうと皆冗談を云った。それは彼が恋をしたって、彼の感情の上にも、いわんや仕事の上にも少しの狂いもずり[#「ずり」に傍点]も起らないだろうという意味だった。
 お芳の想っている相手が誰か、お君は云わなかった。

          下 十七

 その夏は暑かった。しかし秋は雨と氷雨が代り番に続いて、港街が荒さんだ。冬がくると、秋のあとをうけて、今度は天候がめずらしくよかった。が、天気が続けば、除雪の仕事もなくなって、労働者は瘠《や》せなければならない。
 港の労働者の生活はその上、政府の緊縮政策のために、更にドン底に落ち込ませられた。――「親方制度」「歩合制度」の手工業的な搾取方法を昆布巻きのように背負込んでいる労働者たちは、仮りに港に出て稼げても、手取りは何重にも削り取られて、半分になって入ってきた。歩合制度になっていながら、親方は「水揚げ高」(取扱高)の公表もせずに、勝手にごまかして、そのゴマかした高の何割しかくれなかった。金菱が石炭現場に積込機械《コンヴェイヤー》を据えつけてから、パイスキを担いでいたゴモが五十人も一かたまりに失業した。
 女房たちは家の中にジッとして居れなくなった。然しポカンと炉辺に坐っていれば、坐ったきりで一日中そうしていた。呆けたようになっていた。何も考えていなかった。――台所に立って行く。然し台所に行けば、何んのために立って行ったのか、忘れていた。一所にいることが出来ない。何か心の底で終始せき立てられていた。――女房たちは、夫の稼いでいる運河のある港通りへ出てきた。
 日暮れまでいて、帰りに女房たちは親方へ寄った。幾らでも貸して貰いたかった。
 ――笑談《じょうだん》じゃない!
 受付から親方が顔を出した。
 ――この不景気をみてくれ。こっちが第一喰えないんだ。
 そう云われても、女房たちは受付の手すりに肱《ひじ》をかけたきり、だまっていた。帰ることを忘れていた…………。
「H・S工場」の窓から、澱んだ運河を越して、その群れが見えた。――浜が騒がしくなった。「Y労働組合」はそれ等の間を縫って活動していた。不穏なストライキが起るのは、たゞ「きっかけ」だけあればよかった。組合はそれに備える充分の連絡と組織網を作って置かなければならなかった。
「工場代表者会議」が緊急に開かれた。それはこの場合二つの意味をもっていた。――運輸労働者が一斉に蹶起《けっき》したとしても、Y市の「工場労働者」がその闘争の外に立つことは、他の何処の市でもそうであるように分りきっていた。それをこの「工代」の力によって、全市のストライキに迄発展させなければならなかった。一つは「H・S工場」の最近の動揺についてゞあった。
 四つの鉄工場から六人、三つの印刷工場から三人、二つのゴム工場から四人集った。それは各々背後にその工場の何十人かの意見を代表していた。
 その中に、森本が見習工のとき廻って歩いていた鉄工場の仲間が二人もいた。
 ――やっぱり俺達はな……!
 と云って、お互いに笑った。
「工代」をこのくらいのものにするのに、河田たちは半年以上ものジミな努力をしてきていた。――で、
「H・S会社」は戦々兢々《せんせんきょうきょう》としていた。社員も職工も仕事が手につかなかった。――それは三田銀行が日本の一流銀行である金菱銀行に合同されることから起った。政府は金融機関の全国的統制――その集中をはかっていた。この合同もそれだった。銀行はます/\巨大な、数の少ないものに纏《まと》められて行っている。で、今までの「H・S会社」に対する三田銀行の支配権は、当然金菱銀行にそのまゝ移って行った。
 ところが、金菱銀行は自分の支配下に「N・S製罐会社」「T・S製罐会社」この二つの会社を持っていた。然し今まで製罐業では、金菱系の会社は何時でも「H・S会社」に圧倒されていた。だから、今「H・S」が一緒になれば、日本に於ける製罐業を安全に独占出来るのだった。――その製品を全国的に「単一化」して生産能率を挙げることも、技術や工場設備の共通的な改良整理も出来、人員の節約をし、殊にその販売の方面では、今迄無駄に惹《ひ》き起された価格の低下を防いで、独占価格を制定し思う存分の利潤をあげることも出来るのだった。――だから、三田銀行が今迄とっていたような「単純な支配」ではなしに、金菱が積極的に事業そのものゝ中に、ドカドカと干渉してくることは分りきっていた。――これは職工たちの恐れていた「産業の合理化」が直接《じか》に、そして極めて惨酷に実行されることを意味していた。工場はその噂でザワ[#「ザワ」に傍点]めいていた。
 然し問題はもっと複雑だった。
 ――今度のことでは、君、専務や支配人、工場長こいつ等の方が蒼白《まっさお》になってるんだぜ。
 と、引継のために新しい銀行に提出する書類の作成で、事務所に残って毎日夜業をやらせられている笠原が云った。
 ――金菱では自分の系統から重役や重《おも》だった役員を連れてきて、あいつ等を追っ払う積りらしいんだ。然しあゝなると、あいつ等も案外モロイもんだ。――然し問題は面白くなるよ。死物狂いで何か画策してるらしい。
 然し何時でも側にいる笠原には、大体その見当がついていた。――彼等は、金菱の悪ラツ[#「ラツ」に傍点]な進出が如何に全工場の「親愛なる」職工を犠牲にし、その生活を低下させ、「Yのフォード」を一躍「Yの監獄部屋」にまで蹴落《けおと》してしまうものであるか、と煽動し、全従業員の一致的行動によって、没落に傾いている自分達の地位を守ろうとでもするらしかった。
 ――どうも一寸ひッかゝりそうだな。
 と笠原が云った。
 ――然し金菱にかゝったら、いくら専務がジタバタしようが、桁《けた》から云ったって角力《すもう》にならない。これからは「金融資本家」と結びついていない「産業資本家」はドシ/\没落してゆくんだ。度々あるいゝ手本だよ。そう云えば※[#「┐<辰」、屋号を示す記号、82−3]《かなたつ》鈴木だって、手はこれと同じ手を喰らわされたんだ。金融資本制覇の一つの過程だな。
 そればかりでなく、「H・S」の製罐数の大部分は親会社である「日露会社」に売込まれて、カムチャツカに出ていた。それで、一方には
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