集団の彼等は、そのまゝ狭い入口に押していた。
 ――邪魔するに入った奴なら、やッつけッちまえ!
 その時、抑えられたように、下の争いがとまった。と、見張りの一人が、周章てゝ駈けあがってきた。
 ――佐伯の連中が上がるッて云うんだ。それで一もみしてるところへ、専務や工場長や職長が来たんだ。どうする?
 ――よし!
 森本はキッパリ云った。
 ――専務と工場長だけ上げよう。職長や佐伯の連中は絶対に上げないことだ。
 ――そうだ。異議なし!
 一挙に押し切るか、一挙に押しきられるか、そこへ来ている!
 工場長が先に立って、専務が上ってきた。工場長は興奮した唇に力をこめて、キリッとしめていた。然し専務の顔には柔和なほゝえみが浮かんでいた。職工や代表者たちに丁寧《ていねい》に挨拶した。何時もの温厚な専務だった。女工と男工の一部が、さすがに動いた。――専務の持ってきた腹を読んでいる森本は、先手を打って出なければならないことを直感した。この動きかけている動き、先手! これ一つで、この勝負がきまると彼は思っている。専務にたった一言先きに[#「先きに」に傍点]しゃべられることは、この集会をまんまと持って行かれることを、意味していた。――
 彼は全職工の前で、ハッキリと、今迄の経過を述べ、一人も残らない賛成をもって「工場委員会」の委員選挙制が決議されたことを報告し、「決議文」と「要求書」を提出した。その瞬間、細胞の先頭《トップ》で、一斉に拍手がされた。計画的なことだった。五百人の拍手が、少し乱れて[#「乱れて」に傍点]、それに続いた。森本はハラ/\した。然し拍手は天井の低いトタン屋根を、硝子窓をゆるがし、響きかえった。その余韻はそれ等の中にいてたった一人しか味方を持っていない専務の小柄な身体を木ッ端のように頼りなくした。
 専務は明かに周章てゝいた。「要求書」を手にもった専務はそれを持ったまゝ自分が今どうすればいゝかを忘れたように、あやふやな様子をした。――実は、彼はこの食堂に入るまで一つの明るい期待[#「明るい期待」に傍点]を持っていたのだった。自分が今迄長い間、職工たちに与えてきた「Yのフォード」としての、過分な温情はそう安々と崩されるものでない。それを信じていた。たとえ、小部分の「忘恩な」煽動者たちに幾分いゝ加減にされていても、この自分さえ[#「この自分さえ」に傍点]其処へ姿をあらわせば、職工の全部は「忽《たちま》ち」自分のもとに雪崩《なだれ》を打ってくるのは分りきったことだ、と。――然し、それがこんなに惨めになるとは本当だろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そして一斉の拍手! 専務は何よりこの裏切られた自分自身の気持に打ちのめされてしまった。それにもっと悪いことには、専務は問題を両方から受けていた。一方には、自分自身の地位について! これは充分に専務を気弱[#「気弱」に傍点]にさせていた。「金融資本家」に完全に牛耳られて、没落しなければならない「産業資本家」の悲哀が、彼の骨を噛んでいた。そればかりか、今年ロシアが蟹工船の漁夫供給問題の復仇として、更にカムチャツカの、優良漁区に侵出してくることは分りきっていた。
 けれども工場長が口をきった。――危い、と見てとったのだ。
 ――とにかく重大問題で、専務が全部の職工にお話ししたいことがあるんだから……それは、まずそれとして……。
 ――おッ! 一寸待ってくれ!
 森本の後から、ラッカー工場の細胞が針のような言葉を投げつけた。
 ――お、俺だちば、ばかりの力でやったか、会ば……。それば、それば!
 言葉より興奮が咽喉《のど》にきた。で、森本が次を取った。
 ――そんなわけで……一寸、貴方々の……勝手には……。
 彼は専務や工場長に、而も彼等を三尺と離れない前において、もの[#「もの」に傍点]を云うのは初めてだった。彼は赤くなって、何度もドギマギした。普段から、専務の顔さえも碌《ろく》に見れない隅ッこで、鉄屑のように働いている森本だったのだ。それに顔をつき合わせると、専務は案外な威厳を持っていた。――だがそう云われて、この「鉄屑のような」職工に、工場長は言葉をかえせなかった。
 ――まず「確答」だ!
 ――要求を承諾して貰うんだ! それからだ!
 食堂をうずめている職工のなかゝら、誰かそれを叫んだ。上長に対して、そんな云い方は、この[#「この」に傍点]工場としては全くめずらしかった。こういう風に一つに集まると、彼等は無意識のうちにその力を頼んでいた。そして彼等は全く別人のようなことを平気で云ってのけた。
 工場長とそれに森本も同時に眼をみはった。誰が何時の間に職工をこんな風に育てたのか?
 ――直ぐこゝでは無理でしょう。余裕を貰わなければなりますまい。
 初めて専務は口を開いた。この言葉使いは「ナッパ服」とゝもに「H・S」の誇りだったのだ。
 ――余裕? 然しこの少しの無理のない決議はこれ以上どうにもならないのですから。
 ――然し、こっちの……。
 森本はくさび[#「くさび」に傍点]を打ち込まなければならない。
 ――こんな困難な、どんなことになるか分らない時に、その日暮しゝか出来ない我々は、せめてこの機関[#「機関」に傍点]だけを死守しなければならない所へ追いつめられているわけです。さっきから何人も何人もの職工がこゝの壇へ飛び上って、この要求が通らなかったら、全員のストライキに噛じりついても、獲得しなけア駄目だと云ってるのです。我々は勿論ストライキなど、望んでるわけではありません……。
 ストライキ! 「今」この言葉が専務と工場長にこたえ[#「こたえ」に傍点]ない筈がないのだ。カムチャツカの六千六百万罐の註文!
 ――……。
 職工たちはなり[#「なり」に傍点]をひそめた。
 森本はもう一つ重要な先手を打たなければならなかった。
 ――勿論「金菱」のことでは、専務自身としても色々と一緒に御相談したいこともあることゝ思いますが……。
 専務は急に顔を挙げた。森本は思わずニヤリ! とした。然し、彼は無遠慮にその手元へ切り込んだ。
 ――然しそれがすべて、この要求書が承諾され、規約の中にハッキリそうと改正されてからの事にしたら、お互いに相談が出来ると思われます。……でなかったら私たちの方が全く可哀相です。
 ――………………。
 専務はさっきのさっき迄、この「労働者大会」を自分のために[#「自分のために」に傍点]充分利用することを考えていた。自分に対する全職工の支持を決議させて「金菱」が新しく重役を入れることに対して全職工|挙《こぞ》って反対させる。各自が醵金《きょきん》して、職工と社員の「上京委員」を編成し、関係筋を歴訪、運動させる。――殊に、今度のことが自分一個人の問題でないことが好都合だった。その証拠には、職工たちでさえ自発的に集会を持つところまで来ているではないか。だから、専務は、職長から職工の集会のことを聞いたとき、彼等の周章てゝいるのとは反対に、かえってほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑んだのだ。こう意気が合ってうまく行くもんでない。と。でなかったら、専務は直ぐにも警察へ電話をかけるがよかった。それをしなかったではないか。――が、今専務は明かに、職工の自分に対する気持を飛んでもなく誤算していたことに気付いた。又、こんな形でやって来られるとは思いもよらなかった。誰か後にいる! 然し「Yのフォード」はこうも脆《もろ》いものか。労働者って不思議なものだ。――してやられたのだ! そして、もう遅かった!
 ――じゃ、二三日中……。
 専務は自分でもその惨めな弱々しさに気付いた。
 ――二三日中! 然し「金菱」は二三日待ってくれるわけはありません。
 ――……。
 森本は勝敗を一挙に決してしまわなければならない最後の「詰め手」をさしているのだ!
 ――……。
 五百の労働者の耳は、専務のたった一つの言葉を待っている。専務の味方をするものも、飛んでもない会合に出てしまったと思う職工たちも、こゝへくるともう同じだった。五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった。
 ――………………。
 誰か一番後で、カタッと靴の踵《かかと》を下した音が聞えた。
 ――明日の時間後まで……。
 波のようなどよめきが起ったと思った。次の瞬間には、食堂をうちから跳ね上げるような轟音になって「万歳」が叫ばれた。
 彼はたゞ、眼に涙を一杯ためて、手をガッシリと胸に握り合せ、彼の方を見つめているお君を、人たちの肩越しにチラリと見たと思った……。

          二十一

 河田がどんなに待っているだろう。あの「二階」で河田は居ても立っても居られないで、待っているだろう。――だが、森本は一体今日のこの素晴しい出来栄えを、どういう風に、どこから話したらいゝか分らなかった。お君も同じだった。
 二人は河田に情勢報告をし、専務の返答如何による対策をきめ、すぐ帰って、仲間の家で開かれる細胞集会に出なければならなかった。「二階」に上る前には、必ず二度程家の前を通って、様子を見てからにされていた。――二人は道の反対側の暗いところを通りながら、二階をみた。電燈はついていた。別に人影はなかった。下の洋品店に、顔見知りのおかみさんが帳場に坐りながら、表を見ていた。――ひょいと、こっちが分ったらしく、顔が動いたようだった。
 と、おかみさんは眼の前の煙でも払うように、手を振った。それは「駄目々々」という合図らしかった。
 ――変だな。
 立ち止っていることが出来ないので、そのまゝ通り過ぎた。少し行って、又同じところを戻った。四囲《あたり》に注意しなければならなかった。
 ――ね、君ちゃん、お客さんのふり[#「ふり」に傍点]をして、チリ紙でも買って来てくれ。
 ――そうね。変んだ。あすこが分ることなんて絶対にない筈だわ。
 お君は小走りに明るい洋品店の中に入って行った。森本は少し行った空地の塀で待っていた。――一寸して、お君の店を出てくる姿が見えた。
 ――どうした?
 ――大変らしい。
 お君は息をきっていた。
 ――おかみさんが声を出して云えないところを見ると、中に張り込んでいるらしいわ。お釣りを寄こすとき、私を早く出ろ、早く出ろという風に押すのよ。――
 悪寒《おかん》が彼の背筋をザアーッ、と走った。明るかったら、彼の顔は白ちゃけた鈍い土のように変ったのを、お君が見たかも知れなかった。それは専務をとッちめた彼らしくもなかった。
 ――フム、何んだろう。ストライキのことかな。彼の舌が不覚に粘った。
 ――何んにしても、この辺危いわ。
 彼等は明るい大通りをよけた。集会のある仲間の家に一寸顔を出した。心配すると思って、そのことは云わなかった。二三人来ていた。皆興奮して、元気よく燥《はし》ゃいでいた。――彼は自分の家が気になった。そして咽喉がすぐ乾いた。彼は二度も水を飲むために台所へ立った。
 彼は出直してくることにして外へ出た。
 ――顔色が悪いな。大切なときだから用心してくれ。
 仲間が出しなにそう云った。
 お君も一緒だった。彼は全く何時もの彼らしくなく何も云わずに、そのまゝ歩いて行った。
 ――鈴木さんて変な人。
 お君が何か考えていたらしく、フトそう云った。それに何時迄も、黙って歩いているのに堪えられないという風だった。
 ――あの人変なことを云うのよ。……お前は河田にも……キッスをさせたんだから、俺にだっていゝだろうッて! そして酒に酔払って、眼をすえてるの。それから、とてもあの人嫌になった。何か誤解してるらしいの。私に誤解され易いところがあるッて云うけれどもね。……私ねえ、この仕事をするようになってから、もとのような無駄《むだ》なこと、キッパリやめたのよ。第一そんな気がなくなったの、不思議よ。それに芳ちゃんの想いこがれている相手というのが、河田さんなんですもの。あの人まだ河田さんに云ってないらしいけど……。
 彼はハッ! とした。自分でもおかしい程、ドギマギした。だが、本当だろうか? そう云えば、河田が、自
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