分にはどん底の生活をしている可哀相な女がいる。それが自分のたった一人の女だ、と話したことがあった。
――鈴木さんに限らず、男ッて……。
お君がそう云って、――何時もの癖で、いたずらゝしく、クスッと笑った。
――あんたゞけはそれでも少ォし別よ……。
――それはね。
森本は自分でも変なハズミから、言葉をすべらした。然し、何んだか、今云わなければ、それがそれッ切りのような気がした。彼は恐ろしく真面目な、低い声を出した。
――それはね、君ちゃんを本当に……愛してるからさ!
「ま、おかしい! 何云ってるのさ、この男が!」――あの明るい、無遠慮に大きい笑い声が、この我ながら甘ッたるい、言葉を吹き飛ばしてしまうだろう、森本は云ってしまった瞬間、それに気付いて、カアッと赤くなった。――が、お君はフイ[#「フイ」に傍点]に黙った。二人はそれっきり何も云わないで、撥《ばつ》の悪い気持のまゝ歩いて行った。
橋の上へ来たとき、彼が気付いた。――彼はお君を一寸先きに行って貰って、服のポケットを全部調べた。内ポケットの中から、四つに折った、折目がボロ/\になった薄いパンフレットが出た。河田から貰った焼き捨てなければならないものだった。彼はそれを充分に細かく幾つにも切って河に捨てた。闇の澱んでいる暗い河の表に、その紙片がクッキリと白く浮かんで、ひらひらと落ちて行った。時間を置いて、何回かにそれを分けた。――そうしているうちに、彼は落着いてくる自分を感じた。
お君は厚いショウ・ウインドウの硝子に身体を寄りかけたまゝ、彼を待っていた。彼は矢張り何も云わなかった。
別れるところへ来て、立ちどまった時、森本は始めて女の手を握って云った。
――元気を出して、もう一ふんばり、ふんばろう! 「Yのフォード」が俺たちの力で、ピタリと止まることもあるんだからな!
お君はうつむいたまゝ、彼の顔を見ないで、――握りかえしていた。
森本は家の戸を開けたとき、ハッ! とした。彼は然し何も見たわけではなかった、が、それはこんな時に、彼等だけが閃きのように持つ一つの直感だった。――ガラッと障子が開いた。見なれない背広が二人そこへ突ッ立った。――失敗《しま》ったと思った。彼には初めての経験だった。――だがこうなってしまった時、彼は不思議に落付きを失っていなかった。
――どなたです?
――フン。
背広の顔が皮肉にゆがんだ。
――本署のものだよ。
彼はだまって上へあがった。父はまだ帰っていないのか、居なかった。
――まア/\、お前!
母親は顔色をなくして、坐ったきりになっていた。待たしていた間、この可哀相な母親が背広にお茶を出したらしく、「南部せんべい」のお盆と湯呑茶碗《ゆのみちゃわん》が二つ並んでいた。それを見ると、彼は胸をつかれた。彼は次を云えないでいる母親に、
――何んでもないんだ。直ぐ帰るよ。
と云った。
彼は二人の背広にポケットというポケットを全部しらべられた。家の中はすっかり「家宅捜索」をうけて散らばっていた。
土間で靴の紐を結びながら、背のずんぐりした方が、
――こんな所に関係しているものがいようとは思わなかったよ。
と云った。
彼はその言葉の中に、当り前でない意味を聞きとった。彼は河田に云われたことを守っていた。今迄一度だって、彼等に顔を知られたことがなかった筈だ。河田でも云ったのだろうか。そんなことは絶対にない。とすれば――。彼は何かあったんだ、と思った。
母親は坐ったきりだった。彼は何か云えば、それッ切り泣けてしまうような気がした。
――行ってくるよ。
彼はそして連れて行かれた。
二十二
初めての臭い留置場は森本を寝らせなかった。そこは独房だった。
彼は澱んだ空気の中に、背を板壁に寄らせたまゝ坐っていた。――色々な考えが、次ぎから、次ぎから頭をかすめて行く。然し不思議に恐怖が来なかった。ただ頭だけが冴《さ》えてくる一方だった。
明け方が近かった。然しまだ明けなかった。切れ/″\に、それでも、お君のことを夢に見たと思った。寒かった。彼は顎を胸に折りこんで、背を円るめた。
コツ、コツ……コツ、コツ、コツ……。
冴えていた彼の耳が、何処から来るとも知れないその音を捉えた。耳をそばだてると、その時それが途絶えた。彼は息をひそめた。耳がジーンとなっていた。もの[#「もの」に傍点]ゝすべてが凍《い》てついていた。
コツ、コツ、コツ……コツ……コツ……。
彼は耳を板壁にあてた。――と、それは隣りからだった。然し何の音か分らなかった。彼は反射的に表へ気を配った。それから、ソッと拳をあて、低く、こっちから、コツ、コツ、コツと三つほど打ちかえしてみた。――向うの音がとまった。こんな事をして、だがよかったろうか、森本はフトぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。しばらく両方がだまった。
コツ、コツ、コツ……。
又向うが打ち出した。が、今度はその打つ場所がちがっていた。彼はその方へ寄って行った。すると、其処から小さい光の束が洩《も》れていた。何処の留置場でもよくあるように、前に入れられた何人かによって、少しずつ開けられたらしく、そこだけ小さく板がはげて、穴になっていた。――いゝことには、そこは表からは奥になっていた。彼は思いきって、その同じ場所をコツ、コツ、コツと、打ってみた。
低い声がそこから洩れてきた!
彼はソロ/\と身体をずらして穴の丁度、そこへ耳をあてた。
――ダ…………。
はっきりしなかった。何度も耳をあてかえ直した。
――ダレダ……。
「誰だ?」――然し、そういうもの自身が一体誰だろう。彼は口を穴に持って行った。
――誰だ?
ときいた。そして、直ぐ耳をあてた。相手はだまったらしかったが、少ォし大きな声で、
――ダレダ?
と繰りかえした。
アッ! その声は河田ではないか! 彼は急に血が騒ぎ出した。表の方へ気を配ってから、口をあてた。
――河田か?
相手は確かに吃驚《びっくり》したらしかった。
――ダレダ?
――森!
――モリカ?
相手も分ったのだ。彼は全身の神経を耳に持って行った。
――ゲン……
――げん?
――ゲンキカ。
――あ、元気か。元気だ。
…………。
何を云ったか、分らなかった。
――分らない、もう少し大きく!
――コーバ……。
――工場、ん。
――ダイジョウブカ。
――ん、うまく行った。
――アトハ……。
――後は?
――ドウダ。
――大丈夫だ。
――ヘ…………。
――ん?
――ヘコタレルナ。
――ん!
――イツ……。
――何時?
――イヤ、イツデモ。
――何時でも。
――ゲンキで……………。
――分った!
彼は、この不自由に話されているうちにも、いつもの河田を感じた。フウッと胸が熱くなった。彼はのどをゴクッとならした。
――ダレカ……、
――ん。
――ナカマデ……。
――ん? 中迄?
彼は一生懸命に耳をあてた。
――イヤ、ナカマ。
――あ、仲間。
――ウ……ラ……。
――う……ら……。
河田の言葉がハッキリしなかった。が彼はアッ! と思った。
――裏切った?
思わず大きな声を出した。
――ン。
――本当か?
――ホントウ。
知らないうちに握りしめていた彼の掌は、ネト/\と汗ばんでいた。
――ワカル……。
――ん、分る。
――ハズノナイ……。
――ん? ん?
――ワカルハズノナイコトマデ……。
――分る筈の……、ん。
――ミンナ……。
――皆、
――ワカッタ。
――……!
――ジケンハ……。
――事件? ん。
――ジケンハ……。
――ん、分った。
――キョウサントウ!
――矢張り!
矢張りか、と思った。彼は胴締めをされたような「胸苦しさ」を感じた。
――サイ……。
――ん?
――サイゴマデ……。
――ん。
――ガンバレ。
――分った!
――アノ……。
その時、彼はギョッとして、身体を跳ね起した。廊下を歩いてくる靴音を聞いたと思ったからだ。
そしてそれは本当に靴音だった。――何か騒がしい事が、向う端で急に起ったらしかった。
形式だけの検束をうけて、留置場の中で特別の待遇をうけて居た鈴木が、この明け方、首を縊《くく》っていたのを、看守の巡査が発見したのだった。
* *
次の日「H・S工場」の労働者たちは、予期していたように「工場委員会」の自主化を獲得した。たとえ、そのなかにはどんな専務の第二弾の魂胆が含められているとしても。――然し彼等は、次にくる今度こそは本物の闘争にたえるために「足場」を堅固に築いて置かなければならなかった。森本の後は残されていた。――
初めて二人を結びつけた握手が、別れるためのものだったことをお君は思った。それを考えると、胸が苦しくなった。――然し彼が帰ってくる迄、自分たちのして置かなければならない仕事をお君は知っていた。
お君は工場の帰り、お芳とそのことを話し合った。――お芳はそっと眼をぬぐった。
――泣くんじゃない! 泣いちゃ駄目《だめ》!
お君は薄い彼女の肩に手をかけた。お芳は河田のことを考えていた。
春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。
[#地から1字上げ](一九三〇・二・二四)
底本:「工場細胞」新日本文庫、新日本出版社
1978(昭和53)年2月25日初版
初出:「改造」改造社
1930(昭和5)年4、5、6月号
入力:細見祐司
校正:林 幸雄
2006年12月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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