合って、二階になっている。そして降り口は一つしかなかった。――で、帰るのにはどうしても二階に行って、食堂を通り、服を着かえて、その階段を又降りて来なければならない。それが偶然にも森本たちに、この上もない有利な条件を与えた。食堂の会合に出なければ、どうしても帰ることが出来ないようになっていた。――普段から職工仲間に信用のある「細胞」を階段の降り口に立たせて置いて、職工を引きとめた。
 不賛成な職工や女工はしばらく下の工場で、機械のそばや隅の方を文句を云いながら、ブラブラしていた。帰るにも帰れなかったのだ。年老《としと》った職工や女房のいるのが多かった。女工たちは所々に一かたまりになって、たゞ立っていた。女の方は別な理由はなかった。何んだか工合わるく、それに生意気に感じて躊躇《ちゅうちょ》しているらしかった。
 ――ストライキの相談じゃないんだよ。委員を選挙にして下さい。これだけの事なんだよ。
 森本がそれを云って歩くと、それだけの事なら、もっと穏やかな話し様もあるんでないかと云った。
 ――何処にか穏やかでない処でもあるかな。会社と一喧嘩をするわけでもないし、お願いなんだ。女工はお君やお芳に説かれると、五六人が身体を打ッつけ合うように一固りにして、階段を上がった。
 職長たちは事が起ると見ると、事務所の方へ引き上げていたので、一人も邪魔にならなかった。
 食堂には思いがけず、三分の二以上もの職工が押しつまった。然し[#「然し」に傍点]その殆んどが、「会社存亡の問題」という考えから集まっていた。それは誤算すると、飛んでもないことだった。そうでなかったらこのフォードの職工がこれだけ集まる筈がなかった。然しそれをすかさず捉えて、強力なアジ[#「アジ」に傍点]を使って、その方向を引き寄せて来なければならなかった。――
 その時、薄暗い工場の中を影が突ッきって来た。工場の要所々々に立てゝ置いた見張《ピケット》だった。
 ――森君、佐伯あいつ等が盛んに何んか材料倉庫で相談しているよ。それも柔道着一枚で!
 ――佐伯※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 森本の顔がサッと変った。――暴力で打ッ壊しに来る? それが森本の頭に来た。彼はそんなことになれていなかった。
 ――よし、じゃ仕上場の若手に、こゝに立ってゝ貰おう。――そして愚図々々しないで始めることだ!
 森本は階段を上った。五百人近くの職工のこもったどよめきが、足踏みや椅子をずらす音と一しょになり、重い圧力のように押しかぶさって来た。手筈をきめて置いた激励の演説がそれを太くつらぬいた。離れていると、その一つ一つの言葉が余韻を引きずるように、ハッキリ職工たちをとらえている。潮なり[#「なり」に傍点]に似た群衆の勢いが――どよめきが分った。それによって、何より会社[#「会社」に傍点]主義で集っている職工たちを、その演説で引きずり込まなければならないのだ。――彼は嘗《か》つて覚えたことのない血の激しい流れを感じた。これからやってのけなければならない、大きな任務を考えると、彼はガタ/\と身体がふるえ出した。グイと後首筋に力を入れ、顎をひいてもとまらなかった。彼は内心あやふやな恐怖さえ感じていた。こんな時に、河田が側にいてくれたら、たゞいてだけくれても、彼は押し強くやれるのだが、と思った。
 知った顔が振り返って、笑った。――しっかりやってくれ、笑顔がそう云っていた。
 食堂の中はスチィムの熱気と人いきれで、ムンとむれ返っていた。油臭いナッパ服が肩と肩、顔と顔をならべ、腰をかけたり、立ったり――それが或いは腕を胸に組み、頬杖《ほおづえ》をし、演説するものをにら[#「にら」に傍点]んでいた。彼等はそして自分たちでも知らずに、職場別に一かたまりずつ固まっていた。アナアキストの武林の仲間は、一番後に不貞腐《ふてく》された図太い恰好で、板壁に倚《よ》りかゝっていた。
 左寄りの女工たちは、皆の視線を受けていることを意識して、ぎこちなく水たまり[#「たまり」に傍点]のように固まっていた。今迄の会社のどんな「集会」にも、女工だけは除外していた。女たちは今、その初めてのことゝ、自分たちの引き上げられた地位に興奮していた――。
 壇には鋳物場の増野が立っていた。「俺は何故顔の半分が鬼になったか」彼はそのことをしゃべっていた。身体を振って、ものを云う度に、赤くたゞれた顔がそのまゝ鬼になって、歪んだ。――初め、みんなの中に私語が起った。
 ――また、ひでえ顔をしてるもんだな!
 時々小さい笑い声が交った。然しそれ等がグイ/\と増野の熱に抑えられて行った。
――我々はこれだけの危険を「毎日の仕事」に賭けている。こんな顔になって、諸君は笑うだろう。だが、可哀相な僕は顔だけでよかったと思っている。一日二円にもならない金で、我々は「命」さえも安々と賭けなければならない。ブリキ罐をいじっている製罐部の諸君に、私は何人指のない人間がいるかを知っている。――指の無い人間! それが製罐工場が日本一だということをきいている。で、我々はそんな場合、会社の云いなりしかどうにも出来ない。何故だ? 我々は我々だけの職工の利益を擁護してくれる機関[#「機関」に傍点]を持っていないからではないか。――増野はもっと元気づいて続けた。
 ――金菱がどうのとか、産業の合理化がどうとか、面倒な理窟は知らない。たゞ我々のうちの半分以上も今首を――首を[#「首を」に傍点]切られようとして居り、賃銀は下がり、もっとギュウ、ギュウ働かされるそうだ。偉い人はもっと/\儲《もう》けなければならないのだそうだ。――
 彼はそこで水をのむコップを探がした。
 ――で…………。
 水の入ったコップが無かった。彼はそこで吃《ども》ってしまった。カアッと興奮すると、彼は又同じことを云った。すると彼は何処までしゃべったか、見当を失ってしまった。無数の顔が彼の前で、重って、ゆがんで、揺れた。それが何かを叫んでいる。彼は仕方がなくなってしまった。彼は最後のことだけを怒鳴った。
 ――で、工場委員会です。彼奴等の勝手にされていた委員会を我々のものにしなければならない。その第一歩として、委員の選挙です。我々は全部結束いたしまして、この目的のために闘争されんことを、コイ[#「コイ」に傍点]希うものであります。――俺、何しゃべったかなア!
 お終《しま》いに独言ともつかない事をくッつけた。それが皆にきこえたので、ドッと笑った。
 ――よオッく分ったぞ!
 ワザと誰かゞ手をたゝいた。
 お君が森本の後に来ていた。ソッと背を突いた。お君は興奮している時によくある片方の頬だけを真赤にしていた。
 ――耳……。一寸。
 ――ん。
 ――あのね、芳《よっ》ちゃんに出てもらう事にしたの。
 ――芳ちゃん?
 あの「漂泊の孤児」がかい? と思った。何でももの[#「もの」に傍点]をズケ/\云う河田に従うと、お芳は「漂泊の孤児」だった。顔の膚がカサ/\と艶《つや》がなく、何時でも寒そうな、肩の狭い女だった。無口であったが、思慮のあることしか云わなかった。お君がそばにいると、日陰になったように、その存在が貧相になった。
 ――え、真面目な人は案外思いきったことをするものよ。私でもいゝはいゝけれども、私ならそんな事を云うかも知れない女だってことが分ってるでしょう。だから、そうひどく感動は与えないと思うの。然し芳ちゃんなら、へえッ! って皆がね。――煽動効果満点よ! 無理矢理出さすの。
 お君はずるそうに笑った。しめった赤い唇が、耳のすぐそばにあった。
 次に誰が出るか、それをみんな待った。然し人達は意外なものを見た。片隅から出て行ったのは、「女」ではないか、皆は急にナリ[#「ナリ」に傍点]をひそめた。――そして、それがあの「芳ちゃん」であることが分ったとき、抑えられた沈黙が、急に跳ねかえった。ガヤ/\とやかましくなった。
 ――あの女が※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 芳ちゃんは壇の上へ、あやふやな足取りで登ると、仲間の女たちのいる方へ少し横を向いて、きちんと両手をさげたまゝ、うつむいて立った。――顔が蒼白《そうはく》だった。
 ――これだけの男の前だぜ。あれで仲々すれ[#「すれ」に傍点]ッてるんだろう。
 横で、ラッカー工場の職工が云っているのを、森本は耳に入れた。
 芳ちゃんはそのまゝの恰好で、顔をあげずに云い出した。聞きとれないので、皆はしゃべることをやめた。耳の後に掌をあてゝ、みんな背延びをした。
 ――……こゝへ上るのに、どんなに覚悟が要るでしょう……私は生意気かも知れません……でも必死です……誰か矢張り先に立って生意気にならなければ、私たちはどうなって行きますか……。
 ――あの温しい芳公がな。
 一句切れ、一句切れ毎に皆の言葉がはさまった。
 ――ねえ、どう?
 お君は云った。
 ――しっかりしている。
 ――私たち皆と仕事をするようになってから、自分でも分るほど変ってきたわ。
 ――……私たちは男からも、会社からも……何時でも特別待遇をうけてきました……。
 言葉が時々途切れた。
 ――女がこういう所に出て、こうやって話が出来るのは……この工場始まって以来のことかと思います……私たちも一人残らず一緒になり……お助けして行きたいと思っています。皆さんも……どうぞ……。
 芳ちゃんが降りると、ワァーッという声と一緒に、拍手が起った。それが何時迄も続いた。お君の云った通り、男工たちに予想以上の反響を与えた。
 ――矢張り、少し温し過ぎる。
 とお君が云った。
 ――芳ちゃんにしたら大出来だ。然し、よくやってくれた。聞いていると、こう涙が出て来るんだ。
 ――そうね。
 お君は自分の眼をこすった。
 ――さ、行って、賞《ほ》めてやらないと。
 お君は女工たちの方へ走って行った。芳ちゃんは皆に取り巻かれていた。見ると、彼女は堪えていた興奮から、自分でワッ! と泣き出してしまっていた。
 ――安心出来ないよ。廻って歩くと、こゝに集ってるのは矢張り「会社存亡組」が多いんだ。仲間の一人が森本に云った。
 ――然し一旦《いったん》こう集ってしまえば、一つの勢い[#「勢い」に傍点]に捲《ま》き込まれて、案外大したことにならないかも知れない。
 ――然し、俺達も危ない機微をつかんで、成功したな。あとはしゃり[#「しゃり」に傍点]無理、こっちへ引きずることだ。
 次に各職場の代表者が一人ずつ、壇に上った。彼等は全部「細胞」だった。一人々々が火のような言葉を投げつけた。「会社存亡の秋《とき》」を名として、全職工を売ろうとしている彼奴等のからくり[#「からくり」に傍点]をそこで徹底的にさらけ出した。――と、職工たちのなかに、風の当った叢林《そうりん》のような動揺がザワ/\と起った。森本はハッとした。然しそれが代る/″\立つ容赦のない暴露で、見る/\別な一つのうねり[#「うねり」に傍点]のような動きに押され出した。
 電燈がついた。薄暗がりの中に、たゞ灰一色に充満していた職工たちが――その集団が――悍しい肩と肩が、瞬間にクッキリと躍《おど》り上った。誰かゞ、
 ――そら、電燈がついたぞ!
 と云った。
 その意味のない言葉は、然し皆の気持ちを急にイキ/\とさせた。

 結束[#「結束」に傍点]はアこの時ぞ。

 突然四五人が足踏みをして歌い出した。バアーを飲み歩いている職工たちは、誰でもその歌位は知っていた。それが今少しの無理もなく口をついて出たのだ。皆が一斉にその方を見たので、彼等は少してれたように、次の歌が澱んだ。然し、太い揃わない声が続いた。

 卑怯者去らばア去れエ。

 森本が壇に上ったのは一番後だった。彼は何も云う必要がなかった。たゞ用意していた「決議文」と「要求書」の内容を説明して、皆の承諾を得ればよかったのだ。これ等のあらゆる細かい処に、河田たちの用意が含まっていた。
 彼がまだ云い終らないうちだった。激しい云い争いが下の階段に起った。――職工は一度に腰掛けを蹴《け》った。一つの勢いを持った
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