くなと云った通り、自分の名前も、宛《あ》てた森本の名も書いてなかった。
 夏の遅い日暮がくると、団扇《うちわ》位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきていた。白い、さらしの襦袢《じゅばん》一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパン窯《かまど》のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけて、泥溝《どぶ》板をガタ/\させ、走り廻っていた。何時迄も夕映《ゆうばえ》を残して、澄んでいる空に、その喚声がひゞきかえった。
 ――腹減らしの餓鬼《がき》どもだ!
 父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。
 ――どうだった、父《とっ》ちゃの方は?
 ――ン?
 彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程の危《あやう》さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの分らないことに引きずり込まれたらこと[#「こと」に傍点]だと思っているらしかった。
 ――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。
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