働者。」「巡査さん、山田町の吉田キヨといふ人妻は、男を三人持つてゐて、サツク持參で一日置きに廻つて歩いてるさうだ。探査を望む」「お前もその一人か。」「妻と子あり、飢えてゐる。俺はこの社會を憎む。」「ウン、大いに憎め。」「働け。」「働け? 働いて樂になる世の中だか考へてかう云へ、馬鹿野郎。」「社會主義××。」……
 渡は何時でも入つてくる度に、何か書いてゆくことにしてゐた。今迄に、さう決めてからは、何度もやつてゐた。
「俺はとう/\巡査の厄介になつたよ。悲しい男。」「巡査の嬶で、生活苦のために一回三圓で淫賣をしてゐるものが小樽に八人ゐる。穴知り生。」
 渡はさう書かれてゐる次の空いてゐる壁に、爪で深く傷をつけながら丹念に樂書を始めた。熱中すると知らないうちに餘程の時間を消すことが出來た。それは畫でも描いてゐるやうな氣持で出來る愉快な仕事だつた。成るべく長く書かうと思つた。彼は肩先きに力を入れて仕事にとりかゝつた。熱中したときの癖で、何時の間にか彼は舌を横に出して、一生懸命一字々々刻んで行つた。
   おい、皆聞け!(以下三十三行削除)

 かなり長い時間それにかゝつた。渡は讀み返へしてみて滿足を感じた。口笛を吹きながら、コールテンのズボンに手をつツこんで、離れてみたり、近寄つてみたりした。
 夜が明けてゐた。電燈が消えると然し、眼が慣れない間、室の中が急に暗くなつた。壁の樂書も見えなくなつた。青白い、明け方の光が窓の四角に區切られて、下の方へ三、四十度の角度で入つてきてゐた。渡は急に大きく放屁した。それから歩きながらも、力を入れて、何度も續けて放屁した。屁はいくらでも出た。そしてそれが自分でも嫌になるほど、しつこく臭かつた。「えツ糞、えツ糞!」渡はその度に片足を一寸浮かして放屁した。

 八時頃かも知れなかつた。入口の鍵がガチヤ/\鳴つた。戸が開いて、腰に劍を吊してゐない巡査が指先の分れてゐる靴下に草履を引つかけて入つてきた。
「出るんだ。」
「動物園の獸ぢやないよ。」
「馬鹿。」
「歸してくれるのかい、有難いなア。」
「取調だよ。」
 さう云つたが、急に「臭い臭い!」と 廊下に「#「 廊下に」はママ]飛び出てしまつた。

         七

 その日のうちに、又五、六人の勞働者が連れられて來た。室が狹くなると、皆は演武場の廣場に移された。室の半分は疊で、半分は板敷だつた。室の三方が殆んど全部硝子窓なので、明るい外光が、薄暗い處から出てきた皆の眼を初めはまばゆくさせた。中央には大きなストーヴが据えつけられてゐた。お互に顏を見知つてゐるものも多かつたので、ストーヴを圍むと、色々な話が出た。監視の巡査は四人程ついた。巡査も股を廣げて、ストーヴに寄つた。
 日暮れになると皆表に出された。裏口から一列に並んで外へ出ると、警察構内を半廻りして、表口から又入れられた。「盥廻し」をされてしまつたのだつた。急に皆の顏が不安になつた。どや/\と演武場に入つてくると、お互に顏を寄せて、どうしたんだと云ひ合つた。今度の檢束が何か別な原因からだ。といふ直感が皆にきた。實の入つてゐない鹽ツ辛い汁で、粘氣がなくてボロ/\した眞黒い麥飯を食つてしまつてから、皆はまたストーヴに寄つた。が、ちつとも話がはづんで行かなかつた。
 八時過ぎに、工藤が呼ばれて出て行つた。皆はギヨツとして、工藤の後姿を見送つた。
 夜が更けてくると、ブス/\煙ぶつてゐるやうな安石炭のストーヴでは室は温くならなかつた。背の方からゾク/\と寒さが滲みこんできた。龍吉は丹前を持ち出しに、薄暗い隅の方へ行つた。あとから石田がついてきた。
「小川さん、俺こんな事皆の前で云つてえゝか分らないので、默つてゐたんだけど。」と低い聲で云つた。
 龍吉は胃が又痛み出してきたのを、眉のあたりに力を入れて、我慢しながら、
「うん?」と、きゝかへした。
 演武場の外を、誰かゞ足音をカリツ、カリツとさせて歩いてゐた。
 ――少し前だつた。石田が洗面所に行つた。別々の室に入れられてゐる皆が、お互に顏だけでも見合はされ、――又運よく行つて、話でも出來るのは、實は一つしかないために共同に使はれてゐた洗面所だつた。皆が其處へ行くときは、それでその機會をうまくつかめるやうに、心で望んでゐた。石田が入つてゆくと、正面の板壁[#「板壁」は底本では「坂壁」]に下げてある横に長い鏡の前で、こつちへは後を向けた肩巾の廣い、厚い男が顏を洗つてゐた。その時は、石田は何かうつかり外のことを考へてゐたかも知れなかつた。その男の側まで行つて、彼は――と、その時ひよいと、その男が顏をあげた。石田が何氣なく投げてゐた視線と、それがかつちり合つた。「あツ!」石田はたしかに聲をあげた。頭から足へ、何か目にもとまらない速さで、スウツと走つた。彼は、
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