最高の限度に常に張り切つてゐなければならなかつた。然し「別莊」はその氣持に中休みを入れさせてくれる効果を持つてゐる。だから「別莊行き」には皮肉な意味を除けば、ブルジヨワの使ふ「休息」さういふ言葉通りの意味も含まつてゐた。然し誰もこの後の方の事を口には出して云はなかつた。そんな事を云へば、一言のもとに非戰鬪的だとされることを皆はこつそり知つてゐたからだ。
 渡は、足を前に投げ出して、それを股から膝、脛、足首――それから次には逆に――揉んだり、首や肩を自分の掌でたゝいたり、深呼吸するやうに大きく、ゆつくりあくびをしたりした。ふと、渡は、自分は今迄ゆつくりあくびさへした事のなかつた事を思ひ出した。そして獨りで可笑しくなつて、笑ひ出した。
 四、五日前から鈴本の歌つてゐたのを聞きながら、何時の間にか[#「間にか」は底本では「間にが」]覺えた、「夜でも晝でも牢屋は暗い。」の歌を小聲で樂しむやうに、一つ/\味ひながら、うたつて、小さい獨房の中を歩いてみた。渡の頭には何も殘つてゐない。さう云つてよかつた。然し時々今日全國的に開かれる反動内閣打倒演説が出來なくなつた事と、自分達の運動が一寸の間でも中斷される殘念さがジリ/\歸つてきた。が正直に云つて――又不思議に、渡には、それ等の事は眠りに落ちやうとする間際に、ひよい、ひよいと聯絡もなく、淡く浮かんだり[#「浮かんだり」は底本では「浮んかだり」]消えたりする無意味なものゝやうでしかなかつた。
 渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたゝいてみたり、さすつてみたりした。彼は實になごやかな氣持だつた。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になつたりする。さういふ氣持はちつとも渡は知らなかつた。然しもつと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやつてゐるからこそ、監獄にたゝき込まれるんだ、といふ事が渡の場合苦しい苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはゐられないその氣持と理窟なしに一致してゐた。彼は、自分の主義主張がコブのやうに自分の氣儘な行動をしばりつけてゐるやうな窮屈さや、それに對する絶えない良心の苛責などは嘗つて感じなかつた。渡は、自分ではちつとも、何も犧牲を拂つてゐるとは思つてゐないし、社會的正義のために俺はしてゐるんだぞ、とも思つてゐない。生のまゝの「憎い、憎い!」さう思ふ彼の感情から、少しの無理もなくやつてゐた。これは彼の底からの氣持と云つてよかつた。それに彼はがんばり[#「がんばり」に傍点]の意志を持つてゐた。裏も表もなくムキ出しにされてゐた彼の、その「がんばり」はある時には大黒柱のやうに頼りにされたが、別な場合には他の組合員の狂犬のやうな反感をムラ/\ツとひき起すこともなくはなかつた。
 彼は前へすぐ下る髮を、頭を振つて、うるさげに拂ひあげながら、一人ゐる留置場を歩き廻つた。彼の長くない、太い足は柔道をやる人のやうに外に曲がつてゐた。それで彼の上體はかへつて土臺のしつかりしたものに乘つてゐるといふ感じを與へた。彼は一歩々々踵に力を入れて、ゆつくり歩く癖があつた。彼の靴は一番先きに、踵の外側だけが、癖の惡い人に使はれた墨のやうに斜めに減つた。彼は歩きながら同志の者たちはどうしてゐるだらふ、と思つた。[#「思つた。」は底本では「思つた」]誰かかういふ彈壓に恐怖を抱くものがあつては、その事が一番彼の考へを占めた。若しも長びくやうだつたら、それがもつと工合惡くなる、彼はそれに對する策略を考へてみた。
 壁には爪や、鉛筆のやうなもので、色々な樂書がしてあつた。退屈になると、渡は丹念にそれを拾ひ、拾ひ讀んだ。[#「讀んだ。」は底本では「讀んだ」]何處にも書かれる男と女の生殖器が大きく二つも三つもあつた。
「俺は泥棒ですよ、ハイ。」「こゝの××は劍難死亡の相あり――骨相家。」「×事、×事、×事、×、×。(これが未來派のやうな字體で。)「不良青年とは、もつとも人生を眞劍に渡る人のことでなくして何んぞや。呵々」「社會主義者よ。何んとかしてくれ。」「お前が社會主義になれ。」男と女の生殖器を向ひ合せて書いてある下に「人生の悲喜劇は一本[#「一本」に丸傍点]に始つて、一本に終るか。嗚呼[#「嗚呼」は底本では「鳴呼」]。」「私は飯が食えないんです。」「署長よ。お身の令孃には有名な蟲が喰ツついてゐる。」「何んでえ、こつたら處。誰がおつかながるものか。」「勞働者よ、強くなれ。」「こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。樂書はみつともないから止しにしやう。」「糞でも喰らえ。」「不當にも自由を束縛されたものにとつて、樂書は唯だ一つののび/\[#「のび/\」に傍点]と解放された樂天地だ。こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。大いに樂書をしたまへ。」「勞働者がこの頃生意氣になりました。」「この野郎、もう一度云つてみろ、たゝき殺してやるぞ。勞
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