すり減らされて行つた。ムシ齒に這ひ出てゐる神經のやうに、一寸したことにでもピリ/\くる彼の(輕蔑の意味でのデリケートな)心がだん/\鋼鐵のやうに鍛えられてゆくのを感じた。それは然し龍吉にとつては文字通り「連續した××」の生活だつた。龍吉のやうに「インテリゲンチヤ」の過去を持つたものが、この運動に眞實に、頭からではなしに、「身體をもつて」入り込もうとする時、それは然し當然の過程として課せられなければならない「訓練」であつた。そしてそれは又、單純な道ではあり得なかつた。――髮の毛をひツつかんで引きずり廻はされるやうな、ジグザツクな、しかも胸突八丁だつた。
 ――龍吉は妙に、心にしみこんでくる幸子のことを頭から拂ひ落さうとするやうに、大きくあくびをした。片隅で齋藤が餘程長く延びてゐる髮を、やけに兩手の指を熊手のやうにして逆にかき上げた。
 交代の時間が來て、一人に一人づゝ付いてゐた巡査が出て行つた。時々龍吉の家にくるので知つてゐる須田巡査が出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、實際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあつたもんでない。身體が參るよ。」――さう云つたのに、變な實感があつた。
 彼は、人をふんだり、蹴つたりする巡査らしくない親しみを感じ、ひよつとすると、それが彼の素地であるかも知れないものを其處に見た氣がして、意外に思つた。
「實際、ご苦勞さんだ。」
 皮肉でなく、さう云つてやつた。
 齋藤は「ご苦勞――を。」と、ブツ切ら棒に捨科白のやうに巡査の後に投げつけた。
 外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、
「何か自家《うち》にことづけ[#「ことづけ」に傍点]が無いか」とひくゝ訊いた。
 龍吉は一寸何も云へずに、思はず須田の顏を見た。
「いゝや、別に――有難う……。」
 須田は頭でうなづいて出て行つた。少し前こゞみな官服の圓い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飮みたいなア。」誰かゞ獨言のやうに云つた。
「もう、夜が明けるぞ……」

         六

 龍吉と一緒の室にゐた齋藤が便所に行く途中、廊下の突き當りの留置場の前で、
「おい。」――と、その留置場にゐる誰かに呼ばれた、と思つた。
 齋藤は足をとゞめた。
「おい。」――聲が渡だつた。小さい窓へ、内から顏をあてゝゐるのが、さう云へば渡だつた。
「渡か、俺だ。――何んだ、獨りか?」
「獨りだ。皆元氣か。」何時もの、高くない底のある聲だつた。
「元氣だ。――うむ、獨りか。」獨り、といふのが齋藤の胸に來た。
 少し遲れて附いてきた巡査が寄つてきたので、
「元氣で居れ。」と云つて、歩き出した。
 歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思つた。室に歸つてから、齋藤はその事を龍吉に云つた。龍吉はだまつたまゝ、それが何時もの癖である下唇をかんだ。
 石田は、渡とは便所で會つた。言葉を交はすことは出來なかつたが、がつしり落付いた、鋼のやうに固い、しつかりした彼の何時もの表情を見た。
「おい、バンクロフトつて知つてるか。」石田が齋藤にきいた。
「バンクロフト? 知らない。コンムユニストか?」
「活動役者だよ。」
「そんなぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]もの知るもんかい。」
 石田は渡に會つたとき、ひよいと「暗黒街」といふ活動寫眞で見た、巨賊に扮した、バンクロフトを[#「バンクロフトを」は底本では「パルクロフトを」]思ひ出した。渡――バンクロフト[#「バンクロフト」は底本では「パンクロフト」]、それが不思議なほど、ピツタリ一緒に石田の頭に燒付いた。

 渡は、自分が獨房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じやうに、)自分等が主になつてやつてゐる非合法的な運動が發覺した、と思つた。瞬間、やつぱり顏から血がスウと引けてゆくのが自分でも分つた。彼にとつては、然し、それはそれつきりの事だつた。すぐ何時ものに歸つてゐた。そして殊に獨房にどつかり坐つたとき、遠い旅行から久し振りで自家に歸つてきた人のやうな、廣々とつくろいだ氣持を覺えた。――渡でも誰でも、朝眼をぱつちり開ける。と待つてゐたとばかりに、運動が彼をひツつかんでしまふ。ビラを持つて走り廻る。工場の仲間や市内の支部を廻つて、報告を聞き、相談をし、指令を與へる。中央からのレポートがくる。それが一々その地の情勢に應じて色々の形で實行に移されなければならない。委員會が開かれる。石投げのやうな喧嘩腰の討論が續く。謄寫板。組合員の教育、演説會、――準備、ビラ、奔走、演説、檢束……彼等の身體は廻轉機にでも引つかゝつたやうに、引きずり廻はされる。それは一日の例外もなしに、打《ぶ》ツ續けに、何處迄行つても限りのない循環小數のやうに續く。――もう澤山だ! さう云ひたくなる位だ。そしてそのあらゆる間、絶え間なく彼等の心は、張り切り得る
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