一九二八年三月十五日
小林多喜二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)尾行《つけ》られた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、71−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ビク/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
×:伏せ字
(例)××は臺所から
−−
一
お惠には、それはさう仲々慣れきることの出來ない事だつた。何度も――何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク/\したし、周章てた。そして、又その度に夫の龍吉に云はれもした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。
――組合の人達が集つて、議題を論議し合つてゐるとき、お惠がお茶を持つて階段を上つて行くと、夫の聲で、
「嬶の意識の訓練となると、手こずるつて……。」さう云つてゐるのを一度ならず聞いた。
「××は臺所から――これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」
「實際、俺の嬶シヤポだ[#「シヤポだ」に傍点]。」
「ワイフ[#「ワイフ」に傍点]との理論鬪爭になると、負けるんだなあ。」と、そして、皆にひやかされた。
夫は聲を出して、自分で自分の身體を抱えこむやうに、恐縮した。
朝、龍吉が齒を磨いてゐた。側で、お惠が臺所の流しに置いてある洗面器にお湯を入れてやつてゐた。
「ローザつて知つてるか。」夫が楊子で[#「楊子で」は底本では「揚子で」]、口をモグ/\させながら、フト思ひ出して訊いた。
「ローザア?」
「ローザさ。」
「レーニンなら知つてるけど……。」
龍吉はひくゝ「お前は馬鹿だ。」と云つた。
お惠はさういふ事をちつとも知らうと思ひ、又はさうするために努めた事さへ無かつた。それ等は覺えられもしないし、覺えたつて、どうにもならない氣がしてゐた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の幸子から知らされた位だつた。一旦それを覺えると、自家にくる組合の工藤さんとか、阪西さんとか、鈴本さんとか、夫などが口ぐせのやうに「レーニン」とか「マルクス」とか云つてゐるのに氣付いた。何かの拍子に、だから、お惠が「マルクスは勞働者の神樣みたいな人なんだつてね。」と、夫に云つたとき、夫が、へえ! といふ顏付でお惠を見て、「何處から聞いてきた。」と賞められても、さう嬉しい氣は別にしなかつた。
然しお惠は、夫や組合の人達や、又その人達のする事に惡意は持つてゐなかつた。初め、然し、お惠は薄汚い、それに何處かに凄味をもつた組合の人達を見ると、おぢけついた。その印象がしばらくお惠の氣持の中に殘つてゐた。けれども變にニヤ/\したり、馬鹿丁寧であつたりする學校の先生(夫の同僚)などよりは、一緒に話し合つてゐるとみんな氣持のよい人達だつた。物事にさう拘はりがなく、ネチ/\してゐなかつた。かへつて、子供らしくて、お惠などをキヤツ/\と笑はせたり、初めモヂ/\しながら、御飯を御馳走になつてゆくと、次ぎからは自分達の方から「御飯」を催促したりした。風呂賃をねだつたり、煙草錢をもらつたりする。然し、それが如何にも單純な、飾らない氣持からされた。だん/\お惠は皆に好意を持ち出してゐた。
港一帶にゼネラル・ストライキがあつた時、お惠は外で色々「恐ろしい噂さ」を聞いた。あの工藤さんや、鈴本さん[#「鈴本さん」は底本では「鈴木さん」]などの指導してゐるストライキがその「恐ろしい」ストライキである事が、はじめはどうしても呑込めなかつた。
「誰にとつ[#「誰にとつ」に傍点]て、一體あのストライキが恐ろしいつて云ふんだ。金持にかい、貧乏人にかい。」
夫にさう云はれた。が、腹からその理窟が分りかねた。
「理窟でないよ。」
新聞には、毎日のやうに大きな活字で、ストライキの事が出た。O全市を眞暗にして、金持の家を燒打ちするだらうとか、警官と衝突して檢束されたとか、(さういふ中に渡や工藤がゐたりした。)このストライキは全市の呪ひであるとか……。お惠は夫の龍吉までが、殆んど組合の事務所に泊りつきりでストライキの中に入つてゐる事を思ひ、思はず眉をひそめた。龍吉が、寢不足のはれぼつたい青い、險をもつた顏をして歸つてきたとき、「いゝんですか?」ときいた。
「途中スパイに尾行《つけ》られたのを、今うまくまい[#「まい」に傍点]て來たんだ。」
そして、すぐ蒲團にくるまつた。「五時になつたら起してくれ。」
お惠はその枕もとに、しばらく坐つてゐた。お惠はこんな場合、何時でも夫のしてゐることを言葉に出してまで云つた事がなかつた。然し、やつぱり、そんなに苦しんで、何
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