もかも犧牲にしてやつて、それが一體どの位の役に立つんだらう。――プロレタリアの社會が、さう/\來さうにも思へない。お惠はひよい/\考へた。幸子もゐる、本當のところあんまり飛んでもない事をしてもらひたくなかつた。夫のしてゐる事が、ワザ/\食へなくなるやうにする事であるとしか思へなかつた。
 然しお惠は組合の人達の色々な話や勞働者の悲慘な生活を知り、勞働者達は苦しい、苦しくてたまらないんだ、だから彼等は理窟なしに自分達の生活を搾り上げてゐる金持に「こん畜生!」といふ氣になるのだ。組合の人達はそれを指導し、その鬪爭を擴大してゆく、お惠にはさういふ事も分つてきた。夫達のしてゐる事が、それがお惠には何時見込のつくことか分らない事だとしても、非常に「大きな」「偉い」事だ、といふ一種の「誇り」に似た氣持さへ覺えてきた。
 龍吉は三度目の檢束で、學校が首になり、小間物屋でどうにか暮して行かなければならなくなつた。その時――何時か來る、その漠然とした氣持はもつてゐたのだが――お惠は何かで不意になぐられたやうなめまひ[#「めまひ」に傍点]を感じた。然しそのことにこだわつて、クド/\云はない程になつてゐた。
 龍吉は勤めといふ引つかゝはりが無くなると、運動の方へもつと積極的に入り込んで行つた。それからスパイがよく家へやつてくるやうになつた。お惠は店先をウロ/\してゐる見なれない男を見ると、寒氣を感じた。それだけなら、だが、まだまだよかつた。さういふ男が標札を見ながら家へ入つてくると、「一寸警察まで來てくれ。」さう云つて龍吉を引張つてゆくことがあつた。夫が二人位の和服に守られて家を出てゆく、それは見て居れない情景だつた。行つてしまつてからは、變に物淋しいガランドウ[#「ガランドウ」に傍点]な氣持が何時迄も殘つた。お惠は人より心臟が弱いのか、さういふことのあつた時は、何時迄もドキ[#「ドキ」に傍点]ついた鼓動がとまらなかつた。お惠は胸を押へたまゝ、紙のやうに白くなつた顏をして、家の中をウロ/\した。
 ――それは全くお惠には、さう仲々慣れきれる事の出來ないことだつた。何度も――何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク/\したし、周章てた。そして又その度に夫に云はれたりした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。お惠にはさうだつた。
 三月十五日の未明に、寢てゐる處を起され、家の中をすつかり搜索されて、お互にものも云はせないで、夫が五六人の裁判所と警察の人に連れて行かれたとき、お惠はかへつてぼんやりしてしまつて、何時迄も寢床の上に坐つたまゝでゐた。思はず、ワツと泣き出したのは、それから餘つ程經つてからだつた。

 その[#「その」に傍点]朝、幸子はオヤツと思つて、何かの物音で眼をさました。幸子は、パツチリ開いた眼で、無意識に家のなかを見廻はした。何時だらう、朝だらうかと思つた。何故つて、次の室からは五六人の人達の何かザワついてゐる音が聞えてきてゐた。眞夜中なら、そんな筈はない。だが、まだ電燈が明るくついてゐる。朝ではない。どうしたんだらう。疊の上をひつきりなしに、ミシ/\誰か歩いてゐる音がする。
「次の室も調べる。」襖のそば[#「そば」に傍点]で知らない人の聲がした。
「寢る處ですから、何にもありません。」お母さんが殊更に低くしてゐる聲だつた。
「調べてもらつたつていゝよ。」父だつた。
「幸ちやんが眼でも覺すと…………。」
 幸子には所々しかはつきり聞えなかつた。彼女は人が入つてきたら、眠つてゐる振りをしてゐなければならないのだ、と思つた。
 棚からもの[#「もの」に傍点]を下したり、新聞紙がガサ[#「ガサ」に傍点]/\いつたり、疊を起すやうな音がしたり、タンスの引出しを一つ一つ――七つ迄開けてゐる。それで全部だつた。幸子はそれを心で數えてゐた。すると、臺所の方では戸棚を開けてゐる。幸子は身體のずウと底の方からザワザワと寒氣がしてきた。さうなると、身體をどう曲げても、どう向きを變えても、その寒氣がとまらず、身體が顫えてきた。ひよい[#「ひよい」に傍点]とすると、齒と齒が小刻みにカタ/\と鳴つた。びつくりして、顎に力を入れて、それをとめた。父と母の一言も云ふのが聞えない。どうしてゐるんだらう。何か云つてゐるのは、よそ[#「よそ」に傍点]の人ばかりだつた。
 自分の家には、何時でも澤山の人達がくる、然し今來てゐるのはさういふ人達とは、まるつきり異つた恐ろしい直感をおぼえさせた。
 襖が開いた。急にまばゆい光が巾廣く、斜めに差しこんだ。幸子は周章てゝ眼をとぢた。心臟の鼓動が急にドキドキし出した。が、寢がへりを打つ振りをして、幸子は薄眼をあけて見た。母が胸の上に手をくみながら、自分の寢顏をみてゐた。血の氣のない無氣味な顏をしてゐる。父は
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