自分の身體が紙ツ片のやうに輕くなつたのを感じた。彼は片手を洗面所の枠に支へると、反射的に片手で自分の相から[#「相から」はママ]頬をなでた。顏?――それが×だらふか? ××××××××××××××××××、文字通り「××」××、そして、それが渡ではないか!
「×××××。」自分で自分の顏を指すやうな恰好で、笑つてみせた。笑顏!
石田は一言も云へず、そのまゝでゐた。心臟の下あたりがくすぐつたくなるやうに、ふるえてきた。
「然し、ちつとも參らない。」
「うん……」
「皆に恐怖病にとツつかれないやうにつて頼むでえ。」
その時は、それだけしか云へる機會がなかつた。
「キツト何かあつたんだと思ふんだ。」石田が怒つたやうに、低い聲で云つた。
「うむ。…‥心當りがないでもないが。然し、大切なことは矢張り恐怖病だ。」龍吉はストーブの廻りにゐる仲間や巡査の方に眼をやりながら云つた。
「それアさうだ。然し警察へ來てまで空元氣を出して、亂暴を働かなけア鬪士でないなんて考へも、やめさせなけア駄目だ。警察に來ておとなしくしてゐるといふのは何も恐怖病にとツつかれてゐるといふ事ではないんだと思ふ。」
「さうだ、うん。」
「齋藤なんぞ。」さう云つて、ストーヴのそばで何か手振りをしながらしやべつてゐる齋藤を見ながら、「此前だ、警察へ引つぱられてきて、一番罪が輕かつたら、それを恥かしく思つて首でも吊らなかつたら、そんな奴は無産階級の鬪士でないなんて云ひ出したもんだ!」
「……うん、いや、その氣持も運動をしてゐるものがキツト幾分はもつ……何んて云ふか、センチメンタリズムだよ。同志に濟まないつて氣がするもんだからな、そんな場合、然し、勿論それア機會ある毎に直して行かなけアならない事だよ。」
石田は相手を見て、何か言葉をはさもうとした、然しやめると、考へる顏をした。
「それは然し、案外面倒な方法だと思ふんだ。そいつをあまり眞正面から小兒病だとか、なんとか云ひ出すと、處が肝心要めの情熱そのものを根つからブツつり引つこ拔いてしまふ事にならないとも限らないからなあ。勿論それア、その二つのものは別物だけどさ[#「だけどさ」は底本では「たけどさ」]。」
石田は自分の爪先きを見ながら、その邊を歩き出した。
「大切なことはその情熱をそのまゝ正しい道の方へ流し込んでやるツて事らしいよ。――情熱は何んと云つたつて、矢張り一番大きな、根本的なものだと思ふんだ。」龍吉は何かを考へて、フト言葉を切つた。「××的理論なくして、××的行動はあり得ないツて言葉があるさ、君も知つてる有名な奴さ。けれども、それはそれだけぢや本當は足りないと、俺は思つてるんだ。その言葉の底に當然のものとして省略されてる大物は、何んと云つたつて情熱だよ。」
「線香花火の情熱はあやまるよ。牛が、何がなんであらうと、然し決してやめる事なく、のそり/\歩いてゆく。それが殊に俺達の執拗な長い間の努力の要る運動に必要な情熱ぢやないか、と思ふんだ。」
「さうだ。情熱は然し、人によつて色々異つた形で出るものだよ。俺たちの運動は二三人の氣の合つた仲間ばかりで出來るものぢやないのだから、その點、大きな氣持――それ等をグツと引きしめる一段と高い氣持に、それを結びつけることによつて、それ等の差異をなるべく溶合するやうに氣をつけなければならないと思ふんだ。――それア、どうしたつて個人的に云つて不愉快なこともあるさ。だが勿論そんなことに拘はるのは嘘だよ。俺だつて渡のある方面では嫌なところがある。渡ばかりぢやない。然し、決してそれで分離することはしないよ。それぢや組織體としての俺達の運動は出來ないんだから。」
「うん、うん。」
「これから色々困難なことに打ち當るさ。さうすればキツトこんな事で、案外重大な裂目を引き起さないとも限らないんだ。俺たちはもつと/\、かういふ隱れてゐる、何んでもないやうな事に本氣で、氣をつけて行かなければならないと思つてるよ。」
「うん、うん。」石田は口のなかで何邊もうなづいた。
二人がストーヴに寄つてゆくと、皆は巡査と一緒に猥談をやつてゐた。どういふわけで引張られてきたかちつとも分らないと云つてゐた勞働者は二三人ゐた。それ等は初めからオド/\して、側から見てゐられない程くしやん[#「くしやん」に傍点]としてゐた。が、時々その猥談に口をはさんだり、笑つてゐた。話がとぎれて、一寸皆がだまる事があると、走り雲の落してゆく影のやうに、彼等の顏が瞬間暗くなつた。
齋藤が手振で話してゐたのは、女の××のことだつた。それが口達者なので、皆を引きつけてゐた。話し終ると、
「ねえ、石山さん、煙草一本。」
一生懸命に聞いてゐた頭の毛の薄い、肥つた巡査に手を出した。
石山巡査は、下品にえへ、えへゝゝゝと笑ひながら、上着の内隱し[
前へ
次へ
全25ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング