幸子は寢床に走り入ると、うつ伏せになつて、そのまゝ枕に顏をあてゝ泣き出した。幸子は泣きながら、急に父を連れて行つたよその人[#「よその人」に傍点]が憎くなつた。「憎いのはあいつ等だ、あいつ等だ。」と思つた。さう思ふと、なほ悲しくて泣けた。幸子は恐ろしさに顫えながら、今度も[#「今度も」はママ]「お父さん」「お父さん」と、父を叫びながら、心一杯に泣いた。
二
空氣が空間を充たしてゐるそのまゝの形で、青白く凍えてしまつてゐるやうだつた。何の音もしないし、人影もなかつた。――夜が更けてゐた。ヂリ/\と寒氣が骨まで透みこんでくる。午前三時だつた。
カリ/\に雪が凍つてゐる道に、五六人の足音が急に起つた。それは薄暗い小路からだつた。靜まりかへつてゐる街に、その足音が案外高く響きかへつた。電柱に裸の電燈がともつてゐる少し廣い道に、足音が出てきた。――顎紐をかけた警官だつた。サアベルの音がしないやうに、片手でそれを握つてゐた。
ドカ/\ツと、靴のまゝ(!)警官が合同勞働組合の二階に、一齊にかけ上つた。
組合員は一時間程前に寢たばかりだつた。十五日は反動的なサアベル内閣の打倒演説會を開くことに決めてゐた。その晩は、全員を動員して宣傳ビラを市内中に貼らせたり、館の交渉をしたり、それに常任委員會があつたり――やうやく二時になつて、一先づ片付いたのだつた。そこをやられた。
七八人の組合員は、いきなり掛蒲團を剥ぎとられると、靴で×られて跳ね起きた。皆が丸太棒のやうにムツクリと起き上ると、見當を失つて身體をよろつかせ、うろ/\した。
鈴本は、しまつた! と思つた。彼は實は、或は[#「或は」に傍点]と思つてゐた。言論の自由は完全に奪はれてゐる、そこへ持つてきて、無理にねぢ込んで、御本尊――田中内閣の打倒運動をやらうとする、××がその當日になつて、中止々々で辯士を將棋倒しにするのは分り切つてゐるし、覺悟はしてゐたが、その前に[#「その前に」に傍点]或ひは(野×達のことだ!)總檢束でもしないか、よくやりたがる手だ、さう思つてゐた、それが來たんだ、――瞬間さう鈴本は思つた。
「組合のドンキ」で通つてゐる阪西が[#「阪西が」は底本では「坂西が」]、猿又一つで、
「何かあるのか。」と、顏なじみのスパイに訊いた。
「分らんよ。」
「分らん? 馬鹿にするなよ。――睡いんだぜ。」
續いて上つてきた和服が片つ端から、書類を調べ始めた。
「貴樣等、こんな處にゴロ/\してるから碌な[#「碌な」は底本では「録な」]ことをしねえ事になるんだ。」
巡査が横着な恰好に構えてゐる「關羽」そつくりの鈴本をぢろり、ぢろり見ながら、毒ツぽい調子で皆に聞えるやうに、はき出した。鈴本はそんなものにからかつてはゐられなかつた。
「働いてみろ、つまらん考へなんか無くなるから。」
――獨りでしやべれ、誰が相手になつてゐられるもんか!
「一つ世話して貰らひたいもんです。」
阪西は何時もの人の好い笑ひ聲をして、茶[#「茶」に傍点]を入れた。――組合の連中は阪西を足りない事にしてゐた。何處へもつて行つても、つぶしがきかないし、仕事がルーズだつた。然しその人のよさが憎めない魅力をもつてゐた。
その時、渡が周章てゝ階段をかけ降りやうとした。が、巡査がすぐその前に立つてしまつた。「何處へ行くんだ。」
鈴本はその渡の態度を見て、おや、と思つた。渡はその態度ばかりでなしに、顏の色がちつとも無かつた。普段若手として、何時でも一番先頭に立つて働いてゐる、がつしりした、「鐵板」みたいな渡が、渡らしくない! 鈴本は變な豫感を渡に對して感じた。
皆は前と後と兩側を巡査に守られながら、階段をゾロ/\降りた。然し渡を除くと皆元氣だつた。かういふ事には慣れてゐた。一つ、二つ平手が飛んだ。
普段何かすると、すぐ「我々は戰鬪的でなければならない。」と、誰れ彼れの差別なく振りまはして歩く齋藤は、然し矢張り一番元氣だつた。彼が鈴本のところへ寄つてくると、
「明日の演説會《あれ》に差支えるから、我ん張らう。」
「うん、やる必要がある。」
齋藤が、そして何か云はうとした。
「オイ/\ツ! 」いきなり齋藤の後首に警官が手をかけると、こづき廻はすやうにして、鈴本から離して別な方へ引張つて行つた。
[#ここから3字下げ]
民衆の旗、×旗は…………
[#ここで字下げ終わり]
前の方で、誰か突然歌ひ出した。――、ピシリ、といふ平手の音がした。
「何んだ、この野郎!」身體でもつて、つツかゝつて行くの聲だつた。サーベルで×××つける音が、平手打ちの音に交つて聞えた。
皆は前と後と、すつかり腕をつなぎ合はせてゐた。ワザと強く足ぶみをして歩いた。
「うるせえツよ!」齋藤が、小さい身體一杯に叫んで、立ち止
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