彼はそれを渡らずに台地の方へと、爪先きあがりの赤土を踏んであがつて行つた。
其所には古い大きな黒松があつてその浮き根が其所此所に土蜘蛛が足を張つたやうになつてゐた彼は昨日も一昨日もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでゐたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持つてゐた根へ行つて、腰をかけながら川下の方を見た。薄い鈍い陽の光の中に釣人達は絵に画いた人のやうに黙黙として立つてゐた。彼は先つきの女のことをちよつと思ひ出したので、見直してみたがもうそれらしい姿は見えなかつた。
彼は何時の間にか懐に入れてゐた雑誌を取り出して読みはじめた。読んでゐる内に面白くなつて来たので、もう他のことは一切忘れてしまつて、夢中になつて読み耽つてゐた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓会議と軍備縮限とかさう云ふやうな見出しを置いた評論文であつた。そして、実生活の煩労から哲学と宗教の世界へと云ふやうな、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押し付けられるやうな陰鬱な感じがするので、読むことを止めて眼をあげると[#「眼をあげると」は底本で
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