《かどぐち》が見えて、出口に一本の欅《けやき》があり、その欅の後《うしろ》になった板塀の内の柱に門燈が光っていたが、それは針金の網に包んだ円《まる》い笠に被《おお》われたもので、その柱に添うて女竹《めたけ》のような竹が二三本立ち、小さなその葉がじっと立っていた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点《はんてん》が見えた。それは壁虎《やもり》であった。壁虎は餌《え》を見つけたのか首を出したがその首が五寸ぐらいも延びて見えた。彼はおやと思って足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞うようにくるくると舞いだした。彼は厭《いや》なものを見たと思って路《みち》の悪いことも忘れて小走りに左の方へ曲って往った。
※[#ローマ数字「II」、1−13−22]
讓は奇怪な思いに悩まされながら歩いていたがそのうちに頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんなばかげたことのあるはずがない、神経のぐあいであんなに見えたものだろうと思いだした。しかし、それが神経のぐあいだとすると、己《じぶん》は今晩どうかしているかも判らない。もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思いだした。そう思うと憂鬱《ゆううつ》な気もちになった。
讓はその憂鬱の中で、偶然な機会から女を得たこともほんとうでなくて、やはり奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだろうかと思った。
何時《いつ》の間にか彼は今までよりは広い明るい通路《とおり》へ出ていた。と、彼の気もちは軽くなって来た。彼は女が己の帰りを待ちかねているだろうと思いだした。軽い淡白な気もちを持っている小鳥のような女が、隻肱《かたひじ》を突いて机の横に寄りかかってじっと耳を傾け、玄関の硝子戸《ガラスど》の開《あ》く音を聞きながら、己の帰るのを待っている容《さま》が浮んで来た。浮んで来るとともに、今晩先輩に相談した、女と素人屋《しろうとや》の二階を借りて同棲しようとしていることが思われて来た。
(君もどうせ細君《さいくん》を持たなくちゃならないから、好い女なら結婚しても好いだろうが、それにしてもあまり疾風迅雷的《しっぷうじんらいてき》じゃないか)と、云って笑った先輩の詞《ことば》が好い感じをとものうて来た。
職業的な女なら知らないこともないが、そうした素人の処女と交渉を持った経験のない彼は、女の方に特種な事情があったにしても手もなく女を得たと云うことが、お伽話《とぎばなし》を読んでいるような気もちがしてならなかった。
(僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでいるような気がするんです)と、云った己の詞も思いだされた。彼は藤原君がそんなことを云うのももっともだと思った。
……女は真暗になった林の中をふらふらと歩きだした。そして、彼の傍を通って海岸の方へ往きかけたが、泣きじゃくりをしていた。彼はたしかに女は自殺するつもりだろうと思ったので助けるつもりになった。それにしても女を驚かしてはいけないと思ったので、女を二三|間《げん》やり過してから歩いて往った。
(もしもし、もしもし)
女はちょっと白い顔を見せたが、すぐ急ぎ足で歩きだした。
(僕はさっきの男です、決して、怪しいものじゃありません、あなたがお困りのようだから、お訊ねするのです、待ってください)
女はまた白い顔をすこし見せたようであったが足は止めなかった。
(もしもし、待ってください、あなたは非常にお困りのようだ)
彼はとうとう女に近寄ってその帯際《おびぎわ》に手をかけた。
(僕はさっきお眼にかかった三島と云う男です、あなたは非常にお困りのようだ)
女はすなおに立ちどまったがそれといっしょに双手《りょうて》を顔に当てて泣きだした。
(何かあなたは、御事情があるようだ、云ってください、御相談に乗りましょう)
女は泣くのみであった。
(こんな処で、話すのは変ですから、私の宿へまいりましょう、宿へ往って、ゆっくりお話を聞きましょう)
彼はとうとう女の手を握った。……
路《みち》はまた狭い暗い通路《とおり》へ曲った。讓は早く帰って下宿の二階で己《じぶん》の帰りを待ちかねている女に安心さしてやりたいと思ったので、爪《つま》さきさがりになった傾斜のある路をとっとと歩きだした。彼の眼の前には無邪気なおっとりした女の顔が見えるようであった。
……(私は死ぬよりほかに、この体を置くところがありません)
家を逃げだして東京へ出てから一二軒|婢《じょちゅう》奉公をしているうちにある私立学校の教師をしている女と知己《しりあい》になって、最近それの世話で某富豪の小間使に往って見ると、それは小間使以外に意味のある奉公で、往った翌晩主人から意外のそぶりを見せられたので、その晩のうちにそこを逃げだしてふらふらと海岸へやって来たと云って泣いた女の泣き声がよみがえって来た。
讓は己の右
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