側を歩いている人の姿に眼を注《つ》けた。路の右側は崖になってその上にはただ一つの門燈が光っていた。右側を歩いている人はこちらを揮《ふ》り返るようにした。
「失礼ですが、電車の方へは、こう往ったらよろしゅうございましょうか」
 それは壮《わか》い女の声であった。讓には紅《あか》いその口元が見えたような気がした。彼はちょっと足を止めて、
「そうです、ここを往って、突きあたりを左へ折れて往きますと、すぐ、右に曲る処がありますから、そこを曲ってどこまでもまっすぐに往けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです」
「どうもありがとうございます、この前《さき》に私の親類もありますが、この道は、一度も通ったことがありませんから、なんだか変に思いまして……、では、そこまでごいっしょにお願いいたします」
 讓は足の遅い女と道づれになって困ると思ったがことわることもできなかった。
「往きましょう、おいでなさい」
「すみませんね」
 讓はもう歩きだしたがはじめのようにとっとと歩けなかった。彼はしかたなしに足を遅くして歩いた。
「道がお悪うございますね」
 女は讓の後《うしろ》に引き添うて歩きながらどこかしっかりしたところのある詞《ことば》で云った。
「そうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからいらしたのです」
「山の手線の電車で、この前《さき》へまでまいりましたが、市内の電車の方が近いと云うことでしたから、こっちへまいりました、市内の電車では、時どき親類へまいりましたが、この道ははじめてですから」
「そうですか、なにしろ、場末《ばすえ》の方は、早く寝るものですから」
 讓はこう云ってからふと電燈の笠のことを思いだして、あんなことがあったらこの女はどうするだろうと思った。
「ほんとうにお淋しゅうございますのね」
「そうですよ、僕達もなんだか厭《いや》ですから、あなた方は、なおさらそうでしょう」
「ええ、そうですよ、ほんとうに一人でどうしようかと思っていたのですよ、非常に止められましたけれど、病人でとりこんでいる家ですから、それに、泊るなら親類へ往って泊ろうと思いまして、無理に出て来たのですが、そのあたりは、まだ数多《たくさん》起きてた家がありましたが、ここへ来ると、急に世界が変ったようになりました」
 傾斜のある狭い暗い路《みち》が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びていた。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方を揮《ふ》り返った。※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》に化粧をした細面《ほそおもて》の顔があった。
「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」
「おかげさまで、助かりました」
「もう、これから前《さき》は、そんなに暗くはありませんよ」
「はあ、これから前は、私もよく存じております」
「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」
「私は柏木《かしわぎ》ですよ」
「それは大変ですね」
「はあ、だから、この前《さき》の親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」
 讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。香《におい》のあるような女の呼吸使《いきづか》いがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己の室《へや》で机に肱《ひじ》をもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑を掻《か》き乱した。
「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」
「どうもすみません」
「好いです、送ってあげましょう」
「では、すみませんが」
「その家はあなたが御存じでしょう」
 女は讓の左側に並んで歩いていた。
「知ってます」
 右へ曲る角《かど》にバーがあって、入口に立てた衝立《ついたて》の横から浅黄《あさぎ》の洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。
「こっちへ往くのですか」
 讓は曲った方へ指をやった。
「このつぎの横町《よこちょう》を曲って、ちょっと往ったところです、すみません」
「なに好いのですよ、往きましょう」
 路《みち》の上が急に暗くなって来た。何人《なんびと》かがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。
「すこし、こっちは、暗いのですよ」
 女の声には霧がかかったようになった。
「そうですね」
 女はもう何も云わなかった。

      ※[#ローマ数字「III」、1−13−23]

「ここですよ」
 蒸し蒸しするような物の底に押し込められているような気もちになっていた讓は、女の声に気が注《つ》いて足をとめた。そこにはインキの滲《にじ》んだような門燈の点《つ》いている昔風な屋敷門があっ
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