た。
「ここですか、では、失礼します」
讓は下宿の女が気になって来た。彼は急いで女と別れようとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願いいたしとうございますが」
女の顔は笑っていた。
「そうですか、好いですとも、往きましょう」
左側に耳門《くぐり》があった。女はその方へ歩いて往って門の扉に手をやると扉は音もなしに開《あ》いた。女はそうして扉を開けてから揮《ふ》り返って、男の来るのを待つようにした。
讓は入って往った。女は扉を支えるようにして身をかた寄せた。讓は女の体と擦れ合うようにして内へはいった。と、女は後《うしろ》から跟《つ》いて来た。扉は女の後でまた音もなく締った。
「しつれいしました」
薄月《うすづき》が射《さ》したようになっていた。讓は眼が覚めたように四辺《あたり》を見まわした。庭には天鵞絨《びろうど》を敷いたような青あおした草が生えて、玄関口と思われる障子に燈《ひ》の点いた方には、凌霄《にんどう》の花のような金茶色の花が一めんに垂れさがった木が一本立っていた。その花の香《か》であろう甘い毒どくしい香《におい》が鼻に滲《し》みた。
「ここは姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないのですよ」
讓は上へあげられたりしては困ると思った。
「僕はここにおりますから、お入りなさい、あなたがお入りになったら、すぐ帰りますから」
「まあ、ちょっと姉に会ってください、お手間はとらせませんから」
「すこし、僕は用事がありますから」
「でも、ちょっとならよろしゅうございましょう」
女はそう云って玄関の方へ歩いて往って、花のさがっている木の傍をよけるようにして往った。讓は困って立っていた。
家の内へ向けて何か云う女の声が聞えて来た。讓はその声を聞きながら秋になっても草の青あおとしている庭の容《さま》に心をやっていた。
艶《なまめ》かしい女の声が聞えて来た。讓は女の姉さんと云う人であろうかと思って顔をあげた。内玄関《うちげんかん》と思われる方の格子戸《こうしど》が開《あ》いて銀色の燈《ひ》の光が明るく見え、その光を背にして昇口《あがりぐち》に立った背の高い女と、格子戸の処に立っている彼《か》の女を近ぢかと見せていた。
讓はあんなに玄関が遠くの方に見えていたのは、眼のせいであったろうと思った。彼はまた電燈の笠のくるくる廻《まわ》ったことを思いだして、今晩はどうかしていると思いながら、花の垂れさがった木の方に眼をやると、廻転機の廻るようにその花がくるくると廻って見えた。
「姉があんなに申しますから、ちょっとおあがりくださいまし」
女が前へ来て立っていた。讓はふさがっていた咽喉《のど》がやっと開《あ》いたような気もちになって女の顔を見たが、頭はぼうとなっていて、なにを考える余裕もないので吸い寄せられるように燈《ひ》のある方へ歩いて往った。歩きながら怖ごわ花の木の方に眼をやって見ると、木は金茶色の花を一めんにつけて静《しずか》に立っていた。
「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたそうで、さあ、どうぞ」
讓は何時《いつ》の間にか土間《どま》へ立っていた。背の高い蝋細工《ろうざいく》の人形のような顔をした、黒い数多《たくさん》ある髪を束髪《そくはつ》にした凄いように※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女が、障子《しょうじ》の引手《ひきて》に凭《もた》れるようにして立っていた。
「ありがとうございます、が、今晩はすこし急ぎますから、ここで失礼いたします」
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとおあがりくださいまし、お茶だけさしあげますから」
「ありがとうございます、が、すこし急ぎますから」
「待っていらっしゃる方がおありでしょうが、ほんのちょっとでよろしゅうございますから」
女は潤《うるお》いのある眼を見せた。讓も笑った。
「ちょっとおあがりくださいまし、何人《たれ》も遠慮のある者はいないのですから」
後《うしろ》に立っていた女が云った。
「そうですか、では、ちょっと失礼しましょうか」
讓はしかたなしに左の手に持っている帽子を右の手に持ち替えてあがるかまえをした。
「さあ、どうぞ」
女は障子《しょうじ》の傍を離れてむこうの方へ歩いた。讓は靴脱《くつぬ》ぎへあがってそれから上へあがった。障子の陰に小間使のような十七八の島田《しまだ》に結《ゆ》うた婢《じょちゅう》が立っていて讓の帽子を執《と》りに来た。讓はそれを無意識に渡しながら女の後《あと》からふらふらと跟《つ》いて往った。
※[#ローマ数字「IV」、1−13−24]
長方形の印度更紗《いんどさらさ》をかけた卓《たく》があってそれに支那風《しなふう》の朱塗《しゅぬり》の大きな椅子《いす》を五六脚置いた室《へや》があった
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