蟇の血
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三島《みしま》讓《じょう》は
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三年|前《ぜん》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な
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※[#ローマ数字「I」、1−13−21]
三島《みしま》讓《じょう》は先輩の家を出た。まだ雨が残っているような雨雲が空いちめんに流れている晩で、暗いうえに雨水を含んだ地べたがじくじくしていて、はねあがるようで早くは歩けなかった。そのうえ山の手の場末《ばすえ》の町であるから十時を打って間もないのに、両側の人家はもう寝てしまってひっそりとしているので、非常に路《みち》が遠いように思われてくる。で、車があるなら電車まで乗りたいと思いだしたが、夕方来る時車のあるような処もなかったのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談していた女のことが意識に登って来た。
(もすこし女の身元や素性《すじょう》を調べる必要があるね)と云った先輩の詞《ことば》が浮んで来た。法科出身の藤原君としては、素性も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思うのはもっともなことだが、過去はどうでも好いだろう、この国の海岸の町に生れて三つの年に医師《いしゃ》をしていた父に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしている人の処で大きくなり、三年|前《ぜん》に母が亡くなった比《ころ》から家庭が冷たくなって来たので、昨年になって家《うち》を逃げだしたと云うのがほんとうだろう、血統のことなんかは判らないが、たいしたこともないだろう……。
(一体女がそんなに手もなく出来るもんかね)と云って笑った先輩の詞《ことば》がふとまた浮んで来る。……なるほど考えて見るとあの女を得たのはむしろ不思議と思うくらいに偶然な機会からであった。しかし、世間一般の例から云ってみるとありふれた珍しくもないことである。己《じぶん》は今度の高等文官試験の本準備にかかる前《まえ》に五六日海岸の空気を吸うてみるためであったが、一口に云えば壮《わか》い男が海岸へ遊びに往っていて、偶然に壮い女と知己《しりあい》になり、その晩のうちに離れられないものとなってしまったと云う、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。
女と交渉を持った日の情景がぼうとなって浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあったが春の日のように空気が湿っていて、顔や手端《てさき》の皮膚がとろとろとして眠いような日であった。彼は松原に沿うた櫟林《くぬぎばやし》の中を縫うている小路《こみち》を抜けて往った。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いている路《みち》であった。櫟の葉はもう緑が褪《あ》せて風がある日にはかさかさと云う音をさしていた。
その櫟林の前《さき》はちょっと広い耕地になって、黄いろに染まった稲があったり大根や葱《ねぎ》の青い畑があった。そこには櫟林に平行して里川《さとがわ》が流れていて柳が飛び飛びに生えている土手に、五六人の者がちらばって釣を垂れていた。人の数こそちがっているが、それは彼が毎日見かける趣であった。その魚釣《うおつり》の中には海岸へ遊びに来ている人も一人や二人はきっと交《まじ》っていた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃《びく》のかわりに持っていて、覗《のぞ》いてみると時たま小さな鮒《ふな》を一二|尾《ひき》釣っていたり、四五寸ある沙魚《はぜ》を持っていたりする。
彼が歩いて来た道がその里川に支えられた処には、上に土を置いた板橋がかかっていた。その橋の右の袂《たもと》にも釣竿《つりざお》を持った男が立っていた。それは鼻の下に靴ばけのような髯《ひげ》を生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯《へこおび》を尻高《しりだか》に締めていた。小学校の教師か巡査かとでも云う物ごしであった。彼はその脚下《あしもと》に置いてある魚籃を覗いて見た。そこには五六尾の沙魚が入っていた。
(沙魚が釣れましたね)
と、彼が挨拶のかわりに云うと、
(今日は天気の具合が好いから、もすこし釣れそうなもんですが、釣れません)
(やっぱり天気によりますか、なあ)
(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なお好いのですが)
(そうですか、なあ)
彼はちょっと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のようになっていた。彼はその雲を見た後《のち》に川の土手の方へ往こうと思って、板橋の上に眼をやったところで橋のむこう側に立ってこっちの方を見ている壮《わか》い女を見つけた。紫の目立つ銘仙《めいせ
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