ん》かなにかの華美《はで》な模様のついた衣服《きもの》で、小柄なその体を包んでいた。ちょっと小間使か女学生かと云うふうであった。色の白い長手《ながて》な顔に黒い眼があった。彼はどこかこのあたりの別荘へ来ている者だろうと思ったきりで、それ以上べつに好奇心も起らないので、女のことは意識の外に逸《いっ》してその土手を上流《かみて》の方へ歩いて往った。
二丁ばかりも往くともう左側に耕地がなくなって松原の赭土《あかつち》の台地が来た。そこにも川のむこうへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があったが、彼はそれを渡らずに台地の方へ爪《つま》さきあがりの赭土を踏んであがって往った。
そこには古い大きな黒松があってその浮き根がそこここに土蜘蛛《つちぐも》が足を張ったようになっていた。彼は昨日《きのう》も一昨日《おととい》もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでいたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持っていた浮根へ往って腰をかけながら下流《かわしも》の方を見た。薄い鈍《にぶ》い陽《ひ》の光の中に釣人達は絵に画《か》いた人のように黙黙として立っていた。彼はさっきの女のことをちょっと思いだしたので、見なおしてみたがもうそれらしい姿は見えなかった。
彼は何時《いつ》の間にか懐《ふところ》に入れていた雑誌を執《と》りだして読みはじめた。読んでいるうちに面白くなって来たので、もうほかのことはいっさい忘れてしまって夢中になって読み耽《ふけ》っていた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓《ワシントン》会議と軍備制限とか、そう云うような見出しを置いた評論文であった。そして、実生活の煩労《はんろう》から哲学と宗教の世界へと云うような、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押しつけられるような陰鬱《いんうつ》な感じがするので、読むことを止《や》めて眼をあげると、もう陽が入ったのか四辺《あたり》が灰色になっていた。旅館で飯《めし》の準備《したく》をして待っているだろうと思ったので、帰ろうと思って雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちょっと離れた草の生えた処に女が一人低まった方に足を投げだし、双手《りょうて》で膝を抱くようにして何か考えるのか首を垂れている。それは衣服《きもの》の色彩の具合がさっき板橋のむこうで見た女のようであった。
彼は不審に思った。さっきの女が何故《なぜ》今までこんな処にいるのだろう。それとも己《じぶん》と同じように一人で退屈しているから散歩に来て遊んでいるのだろうか、しかし、あんなにうな垂《だ》れて考え込んでいるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄って往ったら鬼魅《きみ》を悪がるかも判らないが一つ聞いてやろうと思った。で、腰をあげて歩きかけたが、そっと往くのは何か野心があってねらい寄るようで疚《やま》しいので、軽い咳《せき》を一二度しながらいばったように歩いて往った。
女は咳と跫音《あしおと》に気が注《つ》いてこっちを見た。それはたしかにさきの女であった。女は別に驚きもしないふうですぐ顔をむこうの方へ向けてしまった。彼は茱萸《ぐみ》の枝に衣《きもの》の裾《すそ》を引っかけながらすぐ傍へ往った。女は※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な顔をまたこっちに向けた。
(あなたは、どちらにいらっしゃるのです)
(私、さっきこちらへまいりましたのですよ)
女が淋しそうに云った。
(それじゃ、宿《やど》にはまだお入りにならないのですね)
(ええ、ちょっと、なんですから)
彼はふと女は何人《だれ》か待合わす者でもあるかも判らないと思いだした。
(こんなに遅くなって、一人こうしていらっしゃるから、ちょっとおたずねしたのです)
(ありがとうございます、あなたはこのあたりの旅館にいらっしゃるの)
(五六日前から、すぐそこの鶏鳴館《けいめいかん》と云うのに来ているのです、もしお宿の都合で、他がいけないようならお出《い》でなさい、私は三島と云うのです)
(ありがとうございます、もしかすると、お願いいたします、三島さんとおっしゃいますね)
(そうです、三島讓と云います、じゃ、失敬します、ごつごうでおいでなさい)
彼は女と別れて歩いたが弱よわしい女の態度が気になって、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだろうかと思いだした。彼は歩くのをやめて松の幹の立ち並んだ陰からそっと女の方を覗《のぞ》いた。
女は顔に双手《りょうて》の掌《てのひら》を当てていた。それはたしかに泣いているらしかった。彼はもう夕飯《ゆうめし》のことも忘れてじっとして女の方を見ていた……。
讓はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲ろうとして見ると、そこに一軒の門口
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング