方の声が聞えて来た。
「しぶとい人ったらありゃしないよ、何故《なぜ》はいと云わないの、いくらお前さんが強情張ったってだめじゃないの、早くはいと云いなさいよ、いくら厭《いや》だと云ったってだめだから、痛い思いをしないうちに、はいと云って、奥様に可愛がられたら好いじゃないの、はいと云いなさいよ」
 讓は少年の顔に注意した。少年はぐったりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けようともしなかった。妹の方の声がやがて聞えて来た。
「強情はってたら、返してくれるとでも思ってるだろう、ばかな方《かた》ね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたって、この家から帰って往かれはしないよ、お前さんはばかだよ、私達が、こんなに心切《しんせつ》に云ってやっても判らないのだね」
「強情はったら、帰れると思ってるから、おかしいのですよ、ほんとうにばかですよ、また私達にいびられて、餌《え》にでもなりたいのでしょうよ」
 婢《じょちゅう》は鬼魅《きみ》の悪い笑いかたをして妹の顔を見た。
「そうなると、私達は好いのだけれど、この人が可哀そうだね、何故《なぜ》こんなに強情をはるだろう、お前、もう一度よっく云ってごらんよ、それでまだ強情をはるようなら、お婆さんを呼んでおいで、お婆さんに薬を飲ませて貰うから」
 婢の少年に向って云う声がまた聞えて来た。
「お前さんも、もう私達の云うことはわかってるだろうから、くどいことは云わないが、いくらお前さんが強情はったって、奥様にこうと思われたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云って、奥様の詞《ことば》に従うが好いのだよ、奥様のお詞に従えば、この大きなお邸《やしき》で、殿様のようにして暮せるじゃないかね、なんでもしたいことができて好いじゃないの、悪いことは云わないから、はいとお云いなさいよ、好いでしょう、はいとお云いなさいよ」
 少年はやはり返事もしなければ顔も動かさなかった。
「だめだよ、お婆さんを呼んでお出《い》で、とてもだめだよ」
 妹の声がすると婢はそのまま室《へや》を出て往った。
 妹はその後《あと》をじっと見送っていたが、婢の姿が見えなくなると少年の後《うしろ》へ廻《まわ》って双手《りょうて》をその肩に軽くかけ、何か小さな声で云いだしたが讓には聞えなかった。
 女は少年の左の頬の処へ白い顔を持って往ったが、やがて紅《あか》い唇を差しだしてそれにつけた。少年は死んだ人のように眼も開けなかった。
 二人の人が見えて来た。それは今の婢と魚《うお》の眼をした老婆であった。それを見ると少年の頬に唇をつけていた妹は、すばしこく少年から離れて元の処へ立っていた。
「また手数《てすう》をかけるそうでございますね、顔ににあわない強《ごう》つくばりですね」
 老婆は右の手に生きた疣《いぼ》だらけの蟇《がま》の両足を掴《つか》んでぶらさげていた。
「強情っ張りよ」
 妹が老婆を見て云った。
「なに、この薬を飲ますなら、理《わけ》はありません、どれ一つやりましょうかね」
 老婆が蟇の両足を左右の手に別べつに持つと婢《じょちゅう》が前へ来た。その手にはコップがあった。女はそのコップを老婆の持った蟇の下へやった。
 老婆は一声《ひとこえ》唸《うな》るような声を出して、蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾《しっぽ》の処が二つに裂けてその血が裂口《さけぐち》を伝《つと》うてコップの中へ滴《したた》り落ちたが、それが底へ微紅《うすあか》く生なましく溜《たま》った。
「お婆さん、もう好いのでしょ、平生《いつも》くらい出来たのですよ」
 コップを持った婢はコップの血をすかすようにして云った。老婆も上からそれを覗《のぞ》き込んだ。
「どれ、どれ、ああ、そうだね、それくらいありゃ好いだろう」
 老婆は蟇《がま》を脚下《あしもと》に投げ捨ててコップを受け執《と》った。
「この薬を飲んで利かなけりゃ、もうしかたがない、皆《みんな》でいびってから、餌《えさ》にしましょうよ、ひっ、ひっ、ひっ」
 老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコップを持って少年の傍へ往って、隻手《かたて》の指端《ゆびさき》をその口の中へさし入れ、軽がると口をすこし開《ひら》かしてコップの血を注《つ》ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
 讓は奇怪な奥底の知れない恐怖にたえられなかった。彼はどうかして逃げ出そうと窓を離れて暗い中を反対の方へ歩いた。そこには依然として冷たい壁があった。しかし、戸も開けずに廊下から続いていた室《へや》であるから、出口のないことはないと思った。彼は壁を探り探り左の方へ歩いて往った。と、壁が切れて穴のような処があった。讓は今通って来た処だと思ってそこを出た。
 ぼんやりした微白《うすじろ》い光が射《さ》して、その前《さき》に広い庭が見えた。讓は喜んだ。玄関口でなくとも外
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング