聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云ってください、どんなことです」
「ここではお話ができませんから、ちょっと次の室《へや》へいらしてください、ちょっとで好いのですから」
讓は争っているよりもちょっとで済むことなら、聞いてみようと思った。
「では、ちょっとなら聞いても好いのです」
「ちょっとで好いのですよ、来てください」
年増《としま》の女が歩いて往くので跟《つ》いて往くとすぐつぎの室《へや》の扉《ドア》を開けて入った。
中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形のちがった椅子を置き、そのむこうには青い帷《とばり》を引いてあった。そこは寝室らしかった。
「さあ、ちょっとここへかけてくださいよ」
年増の女が入口に近い椅子に指をさすので讓は急いで腰をかけた。
「なんですか」
年増の女はその前に近く立ったなりで笑った。
「そんなに邪見《じゃけん》になさるものじゃありませんよ」
「なんですか」
「まあ、そんなにおっしゃるものじゃありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになったのでしょう」
「なんですか、僕にはどうも判らないのですが」
「そんな邪見なことをおっしゃらずに、奥さんは、お一人で淋しがっていらっしゃいますから、今晩、お伽《とぎ》をしてやってくださいましよ、こうして、お金が唸《うな》るほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るのですよ」
「だめですよ、僕はすこし都合があるのですから」
「洋行《ようこう》でもなんでも、あなたの好きなことができるのじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「それはだめですよ」
「あんたは慾《よく》を知らない方ね」
「どうしても、僕はそんなことはできないのです」
「御容色《おきりょう》だって、あんなきれいな方はめったにありませんよ、好いじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「そいつはどうしてもだめですよ」
年増の女の隻手《かたて》は讓の隻手にかかった。
「まあ、そんなことはおっしゃらずに、あちらへまいりましょう、私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから」
讓は動かなかった。
「だめです、僕はそんなことは厭《いや》だ」
「好いじゃありませんか、年よりの云うことを聞くものですよ」
讓はもういらいらして来た。
「だめですよ」
叱りつけるように掴《つか》まえられた手を揮《ふ》り放した。
「あんたは邪見、ねえ」
扉《ドア》が開《あ》いて小さな婆さんがちょこちょこと入って来た。頭髪《かみ》の真白な魚《うお》のような光沢《つや》のない眼をしていた。
「どうなったの、お前さん」
「だめだよ、なんと云っても承知しないよ」
「やれやれ、これもまた手数《てすう》をくうな」
「野狐《のぎつね》がついてるから、やっぱりだめだよ」
年増の女は嘲《あざけ》るように云ったが讓の耳にはそんなことは聞えなかった。彼はその女を突きのけるようにして外へ飛びだした。室《へや》の中から老婆のひいひいと云う笑い声が聞えて来た。
※[#ローマ数字「V」、1−13−25]
讓は日本室《にほんま》のようになった畳を敷き障子《しょうじ》を締めてあった玄関のある方へ往くつもりで、廊下を左の方へ走るように歩いた。間接照明をしたようなぼうとした光が廊下に流れていた。そのぼうとした光の中には鬼魅《きみ》の悪い毒どくしい物の影が射《さ》していた。
讓は底の知れない不安に駆《か》られながら歩いていた。廊下が室《へや》の壁に往き当ってそれが左右に別れていた。讓はちょっと迷ったが、左の方から来たように思ったので、左の方へ折れて往った。と、急に四方が暗くなってしまった。彼はここは玄関の方へ往く処ではないと思って、後帰《あともど》りをしようとすると、そこには冷たい壁があって帰れなかった。讓はびっくりして足を止めた。歩いて来た廊下が判らなくなって一処《ひとところ》明採《あかりと》りのような窓から黄いろな燈《ひ》が光っていた。それは長さが一尺四五寸、縦が七八寸ばかりの小さな光であった。讓はしかたなしにその窓のほうへ歩いて往った。
窓は讓の首のあたりにあった。讓は窓の硝子《ガラス》窓に顔をぴったりつけてむこうを見た。その讓の眼はそこで奇怪な光景を見出《みいだ》した。黄いろに見える土間のような処に学生のような少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られていたが、その傍には道伴《みちづれ》になって来た主婦の妹と云う壮《わか》い女と、さっきの小間使のような婢《じょちゅう》が立っていた。二人の女は何かかわるがわるその少年を攻めたてているようであった。少年は眼をつむってぐったりとなっていた。
讓は釘づけにされたようになってそれを見つめた。婢の
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