らんだろうが、堀川あたりへ捨てたものが、戻って来やしないだろう」
「そうでしょうか、どうも私は、彼《あ》の蠅が戻って来たような気がしますよ」
 女房の眼前の行灯の障子に蠅の影が見えた。
「また蠅が」
 と、彼女は恐ろしそうに云った。
 九兵衛は横から顔を持って往って一眼見た後に、膝を寄せて往って両手ですくい、それを右の指端《ゆびさき》に軽く撮んで行灯の戸を開けて灯火の光に透して見た。羽にも腹の下にも塗ったままの臙脂《べに》が点《つ》いていた。九兵衛はふと気になった。蠅は指の下をすべり抜けて彼と女房の頭の上あたりを静に飛んだ。
「臙脂が点いておりますか」と、女房は大きな声をするのが恐ろしいと云う容《ふう》に聞いた。
「うむ」と、九兵衛は頷いて見せた。
 彼の心は何かに往き当っていた。彼の心には先月亡くなったお玉と云う婢のことが浮んでいた。若狭の生れで宇治の方に伯母が一人あるだけで、他には親も兄弟もない女であった。円顔の小作りな女で飾屋へ四五年も奉公している間に、衣服《きもの》は一枚もこしらえずに百目ほどの銀をためた。
「そんなに銭ばかり集めて、どうするか」
 ある日女房が冗談はんぶんに云
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング