追った。九兵衛は椀を受けとった。
「まさか、今朝の蠅じゃなかろう」
蠅は二人の眼前《めのまえ》をちらちらしていたが、やがて九兵衛の右の腕にとまった。九兵衛は左の手を持って往って掌で伏せ、そっと指で撮んだ。
「おんなじ蠅が戻るか、戻らんか、ためして見る、お豊、臙脂《べに》を持っておいで」
女《むすめ》が臙脂を持って来ると、九兵衛はそれを羽にも体にもべとべと塗ってまた紙袋に入れたが、朝になってすぐ近くで店を出している弟の勘右衛門が伏見へ往くと云って寄ったので、その袋を頼んでやった。
蠅は一疋であったと見えてその日は一日|何人《だれ》も蠅の姿を見なかった。その日は微曇《うすぐもり》のして寒い日であった。夕飯の後で九兵衛は蠅のことを云いだした。
「今日蠅のおらざったところを見ると、やっぱり蠅は一つであったらしいな、それとも二疋おって、一つは昨日捨てておらんようになり、一つは今日捨てに往ったから、それでもう蠅がおらんと云うことになったかも知れんな」
「それとも、昨日の奴が戻ったかも判りませんよ」と、女房は物の陰影を見ているような眼つきをした。
「この寒いのに、そんなに蠅は数多《たくさん》お
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