「何処に」と、女房が顔を動かすと、蠅は九兵衛の膝頭に移った。
「昨日の蠅でしょうか」
「そうかも判らんな」
「煩いから潰しましょうか」
 九兵衛は両手の掌を窪めて左右から持って往ってすぐ掌の中へすくいこんだ。
「潰さずに何処か遠くへ捨てさせよう、店から袋を持っておいで」
 女房は黙って部屋を出て往ったが、直ぐ店で使う小さな紙袋《かんぶくろ》を持って来た。
「清吉が堀川の方へ用達しに往くそうじゃから、あれに捨てさせましょう」
 九兵衛は女房に袋の口を開けさせ、その上に手を持って往って下の方から蠅を出し、急いで袋の口を捻じた。女房はそれを持って再び店の方へ往った。
 夕方になって親子三人で夕飯をはじめようとしていた。婢は湯気の立つ鍋の中から煮た物をしゃくうていたが、それがそれぞれ三つの椀に盛られると、いっしょに盆に載せて女房の方へ出した。女房はまずその一つを九兵衛の膳に載せようとして、椀を差しだしたところで蠅が来てその手首にとまった。
「あ」と、女房は何か恐ろしい物でもとまったように見つめていた。
「蠅か」と、九兵衛は煩そうな顔をした。
「今朝の蠅でしょうか」と、女房は左の手を持って往って
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング