もおぼえないばかりでなく、その治療が速やかに竣《おわ》って少女が傍にいなくなるのを恐れていた。間もなく女は腐った肉を切りとったが、その形は円くて樹の瘤《こぶ》のようであった。また水を持ってこさして傷口を洗って、口から紅い丸のはじき弾大の物を吐いてその上におき、そろそろと撫でまわした。そして、僅かに一撫ですると火のようにほてっていた傷のほてりが、湯気のたちのぼって消えるようになくなってしまった。再び撫でまわすと癢《かゆ》いようないい気もちになった。三たび撫でまわすと全身がすっきりしてきて、その心地よさが骨髄に沁みるようであった、すると女はその丸《たま》を取って咽《のど》に入れて言った。
「これで癒りました」
 そして女は走るように出て往った。孔生はとび起きて走って往き、女の後ろから、
「ありがとうございました」
 と礼を言った。そして、もう癒らないと思っていた病気は癒ったが、思いが女に往っているので苦しくてたまらなかった。孔生はそれから読書することをやめて白痴《ばか》のように坐り、すがって生きて往く物のないようなさまであった。
 公子はもうこのさまを窺って知っていた。そして言った。
「私はあなたのために探して、佳い奥さんをみつけましたよ」
 すると孔生が問うた。
「何人《だれ》ですか」
 公子が言った。
「私の親戚です」
 孔生はじっと考え込んでいたが、やがて、
「そいつは、おいてもらいたいな」
 と独りごとのように言ってから、壁の方を向いて詩句を吟じた。
「曾て滄海を経て水たりがたく、巫山《ふざん》を除却《じょきゃく》してこれ雲ならず」
 公子は孔生の心のあるところを了解して言った。
「父はあなたの大きな才能を崇拝して、いつでも婿にしようとしているのですが、ただ妹の嬌娜は、どうも歯《とし》が若すぎるのです。姨の女《むすめ》の阿松《おまつ》は年が十七で、そんなに悪い女じゃないのです、もし信《まこと》にできないなら、阿松が毎日|園亭《あずまや》にくるのです、その前に待ってて、御覧になったらどうです」
 孔生は公子に教えられたとおり園亭の前へ往って待っていた。はたして嬌娜と一人の麗人が伴れだってきた。それは黛《まゆずみ》で画いた眉の細長く曲っていて美しい、そして小さな足に鳳凰頭《ほうおうとう》の靴を穿《は》いていたが、その美しいことは嬌娜に劣らなかった。孔生は大いに悦んで公子に媒妁《ばいしゃく》をしてくれと頼んだ。
 翌日になって公子は内寝から出てきて孔生に、
「おめでとう、ととのいましたよ」
 と言った。そこで別院の掃除をして、孔生の婚礼の式をあげた。その夜は鼓を打ち笛を吹いて音楽を奏したが、その音楽の響は梁《うつばり》の塵を落して四辺《あたり》にただようた。それはちょうど仙人のいるところを望むようであった。そこで夫婦は衾幄《へや》を同じゅうすることになったが、それは月の世界が必ずしも空に在るときめられないように思われるものがあった。そして合※[#「丞/己」、第4水準2−3−54]《ごうきん》の後には、ひどく心の満足をおぼえた。
 ある夜のことであった。公子は孔生に話をして、
「これまで学問をはげんでくだされた御恩は決して忘れませんが、ただ近ごろ、単公子が訴訟が落着して帰ったので、家を返してくれとひどく催促するものですから、もうこの地を引きあげて西に往こうと思うのです、それでもう今のようにいっしょにいていただくこともできないと思うのです」
 と言った。離別を悲しむの情が二人の胸の中にまつわりついて、どうすることもできなかった。孔生は、
「では、私もいっしょに西に往きましょう」
 と言った。公子は、
「お国へ帰ったらどうです」
 と言った。故郷に帰って往くにはかなり旅費がかかるので孔生の力には及ばなかった。孔生は困った。すると公子が言った。
「御心配なさることはありません、すぐあなたを送ってあげますから」
 間もなく父親は松娘《しょうじょう》を伴れてきて、黄金百両をもって孔生に贈った。そこで公子は左右の手で孔生夫婦を抱くようにして、
「ちょっとの間、眼をつむっていらっしゃい、送ってあげますから」
 と言った。二人が眼を閉じるとその体は飄然と空にあがって、ただ耳際に風の音のするのを覚えるばかりであったが、しばらくして公子の、
「もう来たのですよ」
 という声を聞いて目を啓《あ》けた。果して孔生の故郷の村であった。孔生ははじめて公子が人でないということを知った。孔生は喜んで自分の家の門を叩いた。母はひどく悦《よろこ》んで出てきた。母はまた悴の伴れている美しい女を見て悦んで慰めた。孔生は公子を内へ入れようと思って振りかえったが、もう公子の姿はなかった。
 松娘は姑《しゅうと》に事《つか》えて孝行であった。そのうえ美しくてかしこいということ
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