嬌娜
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孔雪笠《こうせつりゅう》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)着物一|襲《かさね》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)合※[#「丞/己」、第4水準2−3−54]《ごうきん》
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 孔雪笠《こうせつりゅう》は、孔子の子孫であった。人となりが風流で詩がうまかった。同じ先生に就いて学んでいた気のあった友達があって天台県の令となっていたが、それが手紙をよこして、来いと言ってきたので、はるばる往ったところで、おりもおりその友達の県令が亡くなった。孔生は旅費がないので帰ることもできず、菩陀寺《ぼだじ》という寺へ往って、そこの僧に傭われて書き物をした。
 その寺の西の方四百余歩の所に単《たん》先生という人の邸宅があった。単先生はもと身分のある人の子であったが、大きな訴訟をやって、家がさびれ、家族も寡《すくな》いところから故郷の方へ移ったので、その邸宅は空屋となっていた。
 ある日、大雪が降って人どおりの絶えている時、孔生がその家の前を通っていると、一人の少年が出てきたが、その風采がいかにもあかぬけがしていた。少年は孔生を見ると趨《はし》ってきてお辞儀をした。孔生もお辞儀をして、
「ひどく降るじゃありませんか」
 と言うと、少年は、
「どうかすこしお入りください」
 と言った。孔生は少年の態度が気にいったので自分から進んで従《つ》いて入った。
 家はそれほど広くはなかったが、室《へや》という室にはそれぞれ錦の幕を懸《か》けて、壁の上には古人の書画を多く掲げてあった。案《つくえ》の上に一冊の書物があって標題を瑯環瑣記《ろうかんさき》としてあった。開けて読んでみると今まで見た事のないものであった。孔生はその時少年の身分のことを考えて、単の[#「単の」は底本では「単に」]邸宅にいるからその主人であろうと思ったが、それがどうした閲歴の者であるかということは解らなかった。と、その時少年が、
「あなたは、どうした方《かた》です」
 と言って孔生の来歴を訊いた。孔生がその事情を話すと少年は気の毒がって、
「では、塾を開いて生徒に教えたらどうです」
 と言った。孔生はため息をして言った。
「旅烏ですから、何人《だれ》も力になってくれる者がないのです、曹邱《そうきゅう》が季布《きふ》をたすけたように」
 すると少年が言った。
「私のような馬鹿者でも、おすてにならなければ、あなたのお弟子になりましょう」
 孔生はひどく喜んで、
「いや、私は人の師になるほどの者じゃないのです、友達になりましょう」
 と言って、それからあらためて訊いた。
「あなたの家は、久しいこと門を閉めているようですが、どうしたわけです」
 すると少年が答えた。
「此所は単公子の家ですが、公子が故郷の方へ移ったものですから、久しい間空屋となっていたのです、僕《ぼく》は皇甫《こうほ》姓《せい》の者で、先祖から陝《せん》にいたのですが、今度家が野火に焼けたものですから、ちょっとの間此所を借りて住んでいるのです」
 孔生はそこではじめて少年が単の家の者でないことを知った。
 日が暮れても二人の話はつきなかった。そこで孔生は泊ることにして少年と榻《ねだい》をともにして寝たが、朝になってまだうす暗いうちに僮子《こぞう》が来て炭火を室の中で熾《た》きだしたので、少年はさきに起きて内寝《いま》へ入ったが、孔生はまだ夜着《よぎ》にくるまって寝ていた。そこへ僮子が入ってきて言った。
「旦那様がお見えになりました」
 孔生は驚いて起きた。そこへ一人の老人が入ってきた。それは頭髪の真白な男であった。老人は孔生に向って、
「これは先生、悴が御厄介になることになりましてありがとうございます、あの子は字も下手で何も知りません、どうか友達の小児《こども》と思わずに、親類の小児のようにして、きびしくしこんでやってください」
 と、ひどく礼を言った後で、きれいな着物一|襲《かさね》に貂《てん》の帽《ぼうし》と履物を添えてくれ、孔生が手足を洗い髪に櫛を入れて着更えをするのを待って、酒を出して饌《めし》をすすめた。そこの牀《こしかけ》や帷《とばり》などは何という名の物であるか解らないが、綺麗にきらきらと光って見えるものであった。
 酒が数回めぐってから老人はあいさつをして、杖を持って出て往った。そして朝飯がすむと孔生は少年の皇甫|公子《こうし》に書物を教えたが、教科書として出してきた物はたいがい古い詩文で、文官試験の参考になるような当時の用にたつ学芸のものはなかった。孔生はふしぎに思って訊いた。
「試験の参考になるような物はな
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