いのですね」
公子は笑って言った。
「私は世に出る考えがないのですから」
日が暮れてからまた酒になった。公子は孔生のあいてをしながら言った。
「今晩じゅうぶん懽《かん》を尽しましょう、明日はまたどんなさしさわりが起らないともかぎりませんからね」
そこで僮子を呼んで言った。
「お父さんが寝ているかいないかを見て、寝ているなら、そっと香奴《こうど》を喚《よ》んでこい」
僮子は出て往ったが、やがて繍《ぬい》のある嚢《ふくろ》に入れた琵琶を持ってきた。しばらくして一人の侍女が入ってきたが、紅く化粧をした綺麗な女であった。公子はその女に、
「湘妃《しょうひ》を弾け」
と言いつけた。女は象牙の撥《ばち》を糸の上にはしらした。その撥が激しく調子が揚って往くと悲壮な美しさが感じられた。その節まわしは孔生がこれまで聞いたことのないものであった。公子はまた女に言いつけて大きな觴《さかずき》に酒をつがした。
夜が更けてからはじめて罷《や》めた。そして、次の日は早く起きて共に読書したが、公子ははなはだ物わかりがよくて、一目見て暗記することができた。二三箇月の後に文章を作らしてみると、構想が奇警《きけい》で他人の真似のできないものがあった。二人は約束して五日目五日目に酒を飲むことにしたが、その時には必ず香奴を招いた。
ある夜酒がはずんで気が熟した時、孔生は目を香奴につけた。公子はもうその意味をさっして言った。
「この女は、父が世話をしている女です、あなたは旅にいて奥さんがないから、私はあなたに代ってそれを考えているのです。きっと佳い奥さんをお世話いたします」
孔生はそこで言った。
「もし、ほんとうに世話をしてくれるなら、香奴のような女を頼みます」
すると公子が笑って言った。
「あなたは諺《ことわざ》にいう、見るところすくなくして怪しむところ多き者ですね、それを佳い女というなら、あなたの願いはたやすいことですよ」
いつの間にか半年すぎた。ある日孔生は、公子を伴《つ》れて郊外へ散歩に往こうと思って、門口まで往ったところが、門の扉にかんぬきがさして閉めてあった。孔生は不審に思って、
「なぜこうしておくのです」
と問うと、公子が答えた。
「父が、友達がくると、私の心がおちつかなくなるから、それで人のこないように、こうしてあるのです」
孔生の不審はそれではれた。その時は夏のさかりでむしあつかった。孔生は斎園《さいえん》の亭《あずまや》に移った。その時孔生の胸に桃のような腫物《はれもの》ができて、それが一晩のうちに盆のようになり、痛みがはげしいので呻き苦しんだ。公子は朝も晩も看病にきた。孔生は苦痛のために眠ることもできなければ食事をすることもできなかった。
二三日して孔生の腫物の痛みは一層劇しくなった。従って食物もますます食べられないようになった。そこへ公子の父もきたが、どうにもしようがないので公子と顔を見合わして吐息するばかりであった。その時公子が言った。
「私はゆうべ、先生の病気は、嬌娜《きょうだ》がなおすだろうと思って、おばあさんの所へ使いをやって呼びに往かしたのですが、どうも遅いのですよ」
そこへ僮子が入ってきて言った。
「お嬢さんがお見えになりました」
公子の妹の嬌娜と姨《おば》の松姑《しょうこ》が伴れだって来た。親子はいそいで内寝《いま》へ入った。しばらくして公子は嬌娜を伴れて来て孔生を見せた。嬌娜の年は十三四で、はにかんでいる顔の利巧そうな、体のほっそりした綺麗な少女であった。孔生は女の顔を見て苦しみを忘れ、気もちもそれがためにさっぱりとした。その時公子は言った。
「この方は、私の大事の方だ、ただの友達じゃない、どうかよくなおしてあげてくれ」
女ははにかみをやめて、長い袖をまくり、孔生の榻に寄って往って診察した。そして、診察する女の手が孔生の手に触れた時ほんのりと佳い匂いがしたが、それは蘭の匂いにもまさるように思われた。女は笑って言った。
「いい、心脈が動いています、危険ですがなおります、ただ腫物がはりきっていますから、皮を切って肉を削らなくちゃいけません」
そこで臂《ひじ》にはめていた金釧《うでわ》をぬいて腫物の上に置き、そろそろと押しつけるように揉んでいると、腫物は高く一寸ばかりも金釧の中へもりあがってきた。そして根際《ねぎわ》になったところも尽《ことごと》く内へ入って、前の盆のように濶《ひろ》かった腫物とは思われなかった。そこで羅《うすもの》の小帯から佩刀《はいとう》をぬいた。その刀は紙よりも薄かった。そして、一方の手に金釧を持ち、一方の手で刀をにぎって、かろがろと根のつけもとから切った。紫色の血が溢れ出て榻の上も牀もよごしてしまった。孔生は女の美しい姿が自分にぴったりと倚りそうているのがうれしくて、治療の痛み
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