が遠近に伝えられた。その後孔生は進士に挙げられて、延安府の刑獄をつかさどる司理の官になったので、一家をあげて任地に往くことになったが、母は道が遠いので往かなかった。
 松娘は任地で一人の男の子を生んだので、小宦と名をつけた。孔生は朝廷から差遣《さけん》せられて地方を巡察する直指《ちょくし》に忤《さかろ》うたがために官を罷《や》めさせられたが、いろいろのことに妨げられてかえることができなかった。ある日郊外へ出て猟をしていると、黒馬に乗った一人の美しい少年に往き逢ったが、少年は頻《しき》りに此方を振りかえるのであった。気をつけて見るとそれは皇甫公子であった。そこで轡《くつわ》をとって馬を停め、悲喜こもごも至るというありさまであった。
 公子はやがて孔生を邀《むか》えて一つの村へ往った。そこは樹木がまっくらに生えて陽の光が射さない所であった。その家へ入ってみると金色の鴎の形をした浮き鋲を打ったりっぱな旧家であった。
「妹さんはどうしたのです」
 と孔生が問うた。
「あれはお嫁に往ったのです、しかし、もうあれ達の母はないのですよ」
 と公子が答えた。孔生は岳母の死を悼み、また嬌娜の結婚を悦んだ。
 孔生は一晩泊って帰り、再び妻子を伴れて往った。そこへ嬌娜がまたきたが、嬌娜は松娘の手から小児を取ってあやしながら言った。
「私のお姉さんはね、私達の種をみだしたのよ」
 孔生はそこで腫物を癒してもらった礼を言った。すると嬌娜は笑って言った。
「お兄さんは豪《えら》い方ですわ、創口がもう癒ってるのに、まだ痛みをお忘れになりませんの」
 嬌娜の夫の呉郎《ごろう》が来てあいさつをした。呉郎は二晩泊ってから帰って往った。
 ある日、公子は心配そうな顔をしていたが、孔生に言った。
「天が私達に殃《わざわい》を降そうとしているのです、救うていただけましょうか」
 孔生はその意味がわからなかったが、
「どんなことですか、私にはわからないが、私にできることならなんでもやりましょう」
 と言ってきっとなった。公子は急いで出て往ったが、すぐ一家の人々を呼んできて、皆で孔生を拝んだ。孔生は大いに駭《おどろ》いて口ばやに問うた。
「どうしたのです、どうしたのです」
 すると公子が言った、
「私は人間じゃないのです、狐です、今、雷《かみなり》の劫《ごう》があります、あなたは死を覚悟でそれに当ってください、そうしてくださるなら、その殃をのがれることはできるのです、もしそうしていただくことができないなら、小児を抱いて往ってください、まきぞえにならないように」
 孔生は義に勇む男であった。孔生は、
「死ぬるなら皆でいっしょに死にましょう」
 と言って公子と生死をちかった。そこで公子は孔生に剣をとって門に立っていてくれるようにと頼み、なお注意して、
「雷がどんなにはげしくっても、けっして動いてはいけませんよ」
 と言った。孔生は公子の言うとおり剣を抜いて門の所へ往って立っていた。果して黒い雲が空を覆うて暗くなった。振りかえって家の方を見るとそこにあった門もなく、ただ高い塚とおおきな底の知れないような穴があるばかりであった。孔生はびっくりした。と、恐ろしい雷の音がしてそれが山岳を揺り動かした。つづいて荒い風が吹き雨が横ざまに降ってきた。それがために老樹が倒れた。孔生は眼前《めさき》がくらみ耳がつぶれるように思ったが、屹然《きつぜん》と立ってすこしも動かなかった。と、見ると、黒い絮《わた》のような煙の中に怪物の姿があって、それが尖《と》んがった牙のような喙《くち》と長い爪を見せて、穴から一人の者を攫《さら》って煙に乗って空にのぼろうとした。その着物と履物に注意すると、どうも嬌娜に似ているので、孔生は躍りあがって斬りつけた。怪物の掴んでいた者は下に落ちた。それと同時に山の崩れるような雷の音がして、孔生は仆れてとうとう死んでしまった。
 間もなく空が霽《は》れた。嬌娜はしぜんと生きかえったが、孔生が傍に死んでいるのを見て大声をあげて泣いた。
「お兄さんは私のために死んじゃった、私は生きてはいられない」
 そこへ松娘が出てきて、二人で孔生の死骸を舁《かつ》いで帰った。そして嬌娜は松娘に孔生の首を持ちあげさし、公子には簪《かんざし》で歯の間を開けさして、自分では頤《あご》を撮《つま》んで、舌でかの紅い丸を移し、またその口に口をやって息を吹きかけた。それがために紅い丸は気に随《したご》うて喉に入り、かくかくという響をさした。そして暫くすると孔生は生きかえったが、一族の者が前に集まっているのを見て夢の寤《さ》めたような気になった。
 そこで一門が一室に集まって喜んだ。孔生は皆を塚穴の中に久しくいさしてはいけないと思ったので、皆で自分の故郷へ往こうと言った。皆がそれに賛同したが、ただ嬌娜のみ
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