ころがあるように思ったので、其所へ来た理由を訊いた。女は彼方を見此方を見してぼんやりとなって自分でも解らないようになった。その席にいた一人が、
「桑生は病気で国へ帰ったというじゃないか、そんなことはないだろう」
 と言った。女は、
「たしかにおります、帰ったというのは嘘です」
 と言って聞かなかった。章の家ではひどく疑っていた。東隣の男がそれを聞いて、垣を踰《こ》えてそっと往って窺いた。桑と美人が向きあって話していた。東隣の男はいきなり入って往った。女はひどくあわてていたが、そのまに見えなくなってしまった。東隣の男は言った。
「君は帰ってるはずじゃないか、どうしたのだ」
 桑は笑って言った。
「いつか君に言ったじゃないか、女なら納れるってね」
 東隣の男は燕児の言ったことを話した。桑は燕児の家へ往って探ろうとしたが口実がないので困った。燕児の母親は、桑生のまだ帰っていないことを聞いて、ますます不思議に思って、傭媼《やといばば》に履があるかないかを探らしによこした。桑生は履を出して与えた。
 燕児は履がくると喜んだ。そしてその履を穿《は》こうとしたが一寸ばかりも小さくって履けなかった。そこでひどく駭いて鏡を取って顔を映したが、たちまちうっとりとなって言った。
「お母さん、私の体には何人か他の人がいるのですよ」
 母親ははじめてその怪異を悟った。女はまた鏡を見てひどく泣いて言った。
「あの時には、私も容色《きりょう》に自信があったのだ、それでも蓮香姉さんを見ると恥かしかったが、今、かえってこんな顔になったのだ」
 傍にいる人は李の鬼であるということが解らなかった。女は履を取って泣き叫んで、なだめてもやめなかった。そして、蒲団にくるまって寝て、食物を持って往っても喫《く》わなかった。体は一めんに腫れて、七日位の間は何も喫わなかったが死ななかった。そして腫れがやっとひいて、ひもじくてたまらなくなったので、そこで食事をした。
 二三日して体一めんが※[#「やまいだれ+蚤」、第3水準1−88−53]くなって皮がことごとく脱けた。そして朝はやく起きて、病中にはいていた履の落ちているのを拾って履いたが、大きくて足に合わなかった。そこで桑の所からもらってきたかの履をつけてみるとしっくりと合った。燕児は喜んでまた鏡を執って見た。それは眉も目も頬も婉然たる李であった。燕児はますます喜んで
前へ 次へ
全13ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング