「うん」
 監物は不動の木像を見詰めて立っていた。と、その時であった。ばらばらと云う怪しいものの弾ける物音が裏山の方でしはじめた。続いて人の叫ぶ声がした。邸の裏の山林が火を発したところであった。真紅な火は裏山の空に燃えあがって、その焔が風に吹かるる秋雲のように西に東に切断《きれぎれ》に飛んだ。
「旦那、大変、大変じゃ」
 臣は手燭の火を落して叫んだ。監物は刀を投げ捨てた。
「甚六、この不動様を戸波へ戻しに往け」
「あれ、あれ、旦那、山火事でございます」
 監物の耳へは何事も入らなかった。監物は唸るように云った。
「甚六、甚六、早く不動様を戸波へ戻しに往け」
 山林の火は四方へ燃え拡がって山の畝《うね》りをはっきりと映しだした。
「甚六、早く往かんか、甚六」
 監物の声はうわずって聞えた。

 不動尊の木像はその夜のうちに戸波の積善寺に返して、薬師堂の中へ元のように納めた。そして、その勢では附近の山林を焼き尽さねば休《や》まないように思われた山火事は、案外僅かばかりの焼けかたでこともなく消えてしまった。

       余話

 大正九年八月某日、土佐を漫遊していた桂月翁と私は、戸波の青
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