《ざら》した浴衣を着ていた。私は和智君とは一度しか逢ったことはなかった。それはもう六七年前のことであったが、眼玉の出た神経的な特異な眼に記憶があった。和智君はエヤーシップの袋を出して火を点《つ》けた。
「大町先生の門口まで往ったが、ひっ返して来ました」
 和智君は東京から帰って朝鮮あたりで新聞記者をしていたと言った。
「アメリカへ往くつもりで、渡行免状をもらったところで、親爺が病気になったものですから、よしたのです」
 と、和智君が言いかけたところで、どう、どう、という風の音とも遠雷とも判らない物の音がして、その音が地の底に響いたように感じた刹那、家がぐらぐらと揺れだした。ちょうど大波の上に乗った小舟のように揺れて、畳がむくむくと持ちあがりそうになった。がらがらばらばらと物の崩れるような音や倒れるような音が、周章《あわ》てた私の耳に入った。
「地震だ」
 私と和智君ははね飛ばされたように起ちあがった。私は畳の上を二足ばかりひょろひょろと歩いた。
「おい、地震だ、地震だ」
 下から女の児の泣き声と家内の叫ぶ声とが同時に聞えて来た。私はふと家内と子供を二階へ伴れて来ようと思った。それは安政
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