その時分であった。久武内蔵助の邸では、五つか六つになった末の男の子が、庭へ出て、乳母や婢《じょちゅう》に囃《はや》されて遊んでいた。小供は乳母の傍からちょこちょこと離れて、庭前《にわさき》の松の木の根元のほうへ往った。其処には小供の気に入りの小さな犬が、沙《すな》の上へ白い腹をかえして寝ていた。
「わんわん」
小供は犬の真似をしていた。松の傍から五十余りの髪の白い女が出て来た。乳母はその女に眼を留めてこの庭前に何しに来た人であろうかと不審した。
「※[#「※」は「女+朱」、第3水準1−15−80、84−9]《きれい》な若様じゃ」
老女はこう云って男の子に近づいて、隻手《かたて》をその肩にやった。男の子は大きな声を出してわっと泣いた。泣いたと思うと、そのまま仰向けに引っくり返って動かなくなった。乳母が驚いて大声をだすと、後の方にいた二人の婢も驚いて走って来た。
「水を、水を」
乳母は男の子を抱きあげて縁側の方へ走った。婢は狼狽《うろた》えて庭を彼方此方と走った。
「若様が大変じゃ、若様が大変じゃ」
乳母が縁側をあがろうとしていると、男の子は呼吸《いき》を吹き返して泣きだした。
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