うとしたが止められなかった。宅悦はしかたなく鉄漿の道具を持って来た。お岩は体をふるわしながら鉄漿を付け、それから髪を櫛《す》きにかかったが、櫛《くし》を入れるたびに毛が脱けて、其の後から血がたらたらと流れた。
「やや、脱毛《ぬけげ》から滴《したた》る生血《なまち》は」よろよろと起きあがって、「一念|貫《とお》さでおくべきか」
宅悦は泣きだした嬰児《あかんぼ》を抱いていた。
「これ、お岩さま、もし、もし」
宅悦はお岩の傍へよって片手を其の肩へかけた。お岩の体はよろよろとなって倒れかかった。其処には鴨居に刺さっていた刀が落ちかかっていたので、お岩の咽喉《のど》は其の刀へ往った。
「う、う」
どす黒い血がお岩の顔から体を染めた。宅悦はふるえあがった。
「た、たい、へんだ、たいへんだ」
其の時|何処《どこ》からともなく一匹の猫が来た。
「こん畜生、死人に猫は禁物だ」
宅悦は猫を追った。其の途端に欄間の上から大きな鼠が猫を咬《くわ》えて出て来たが、すぐ畳の上へ落とした。宅悦は嬰児を寝かすなり表へ走り出た。門の外には伊右衛門が裃《かみしも》をつけて立っていた。
「按摩か、首尾はよいか」
宅悦は夢中になっていた。
「たいへん、たいへん、たいへん、お岩さまがたいへんだ。それに、大きな鼠が、猫が」
宅悦は狂人のようになって走った。伊右衛門は訳が判らなかった。
「なんだ、鼠がどうしたのだ。鼠、鼠と云って逃げやがったが、首尾がわるいのか。それでは、彼《あ》の中間|奴《め》を姦夫《まおとこ》にするか」それから内へ入って、「お岩、お岩」
足もとで嬰児が泣きだした。伊右衛門はびっくりした。
「あ、もうすこしで、踏み殺すところじゃ。お岩は何処へ往った、おい、お岩」
其の時また彼《あ》の大きな鼠が何処からともなく走って来て、泣き叫ぶ嬰児に咬みついた。
伊右衛門はすばやく嬰児を抱きあげて、きょろきょろと四辺《あたり》を見た。其処にお岩の死骸があった。伊右衛門は駈けよった。
「や、こりゃお岩が死んでおる」刀を見つけて、「こりゃ小平めの赤鰯《あかいわし》じゃ、そんなら彼奴《きゃつ》が殺したか」
伊右衛門は一方の襖をあけた。其処には小平が昼のままの姿で押しこめられていた。伊右衛門はいきなり小平を引きずり出して、縛《いましめ》を解き猿轡を除《と》った。
「やい、小平、よくもよくも汝《きさま》は、お岩を殺したな」
「めっそうな、たった今まで、両手も口も結《ゆ》わえられておりましたに」
「それでも、それそれ、両手が動くじゃないか。さあ、云え、なんでお岩を殺した」
「そう云わっしゃるなら、わたしがお岩さまを殺した下手人《げしゅにん》になりますから、どうか彼のソウセイキを」
「べらぼうめ、彼《あ》の唐薬は、さっき質屋へ渡したのだ」
「それでは、あれは、彼の質屋に」
小平が走って往こうとする後《うしろ》から、伊右衛門は刀を脱いて斬りつけた。
「お岩の仇《かたき》」
其処へ秋山長兵衛と関口官蔵が入って来た。長兵衛は眼をみはった。「民谷|氏《うじ》、ぜんたいこれは」
伊右衛門は小平をずたずたに斬りきざんでいた。
「不義者を成敗したのだ」
伊右衛門はそれから長兵衛と官蔵に頼んで、お岩と小平の死骸を神田川《かんだがわ》へ投げこました。
七
伊右衛門は屏風を開けてお梅の傍へ往こうとした。伊右衛門は其の夜遅くなって喜兵衛がお梅を伴れて来たので、祝言の盃《さかずき》をしたところであった。
「どうじゃ、お梅」
伊右衛門はお梅の枕元へ座って、恥かしそうに俯向《うつむ》きになっているお梅の顔を覗きこんだ。と、お梅が、
「伊右衛門さま、どうぞ末なごう」
と云って顔をあげたが、それはお梅でなく物凄いお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は傍にあった刀を脱いて斬りつけた。首は刀に従って前へころりと落ちたが、落ちた首はお梅であった。
「やっぱりお梅であったか」
伊右衛門はうろたえて隣の室《へや》へ飛びこんだ。其処には喜兵衛が嬰児《あかんぼ》を抱いて寝ていた。
「喜兵衛殿、たいへんじゃ」
伊右衛門は喜兵衛を起した。それは喜兵衛でなくて嬰児を咬い殺して口を血だらけにしている小平であった。小平は伊右衛門を見た。
「旦那さま、薬をくだされ」
伊右衛門は飛びあがった。
「わりゃ小平め、よくも子供を殺したな」
伊右衛門の刀はまた其の首に往った。同時に首はころりと落ちたが、それはやっぱり喜兵衛の首であった。
「さては、死霊のするしわざか」
其のまわりには青い火がとろとろと燃えていた。
伊右衛門は刀を揮《ふ》り揮り門口へ往ったが、門口の戸がひとりでにがたりと締って出られなかった。
八
隠亡堀《おんぼうぼり》の流れの向うに陽が落ちて、入相《いりあい》の鐘がわびしそうに響いて来た。深編笠《ふかあみがさ》に顔をかくした伊右衛門は肩にしていた二三本の竿をおろして釣りにかかった。
傍には鰻掻《うなぎかき》になっている直助がいて、煙草を飲みながら今のさき鰻掻にかかって来た鼈甲《べっこう》の櫛を藁で磨いていた。伊右衛門はそれを見て、煙草を出して火を借りようとした。
「火を借してもらいましょう」
直助はすまして煙管《きせる》の火を出した。
「お点けなされませ」そして笠の中を覗いて、「伊右衛門さんお久しゅうござります」
伊右衛門は驚いた。
「そう云うてめえは、直助か」
「其の直助も、今では鰻掻の権兵衛」
話のうちに標《うき》がびくびく動きだした。伊右衛門はそれと見て竿をあげると小鮒《こぶな》がかかっていた。
「ああ、鮒か」
其のうちに他の標が動きだした。
「そりゃ、またかかった」
伊右衛門は調子にのって大きな声をしながらあげた。それには鯰《なまず》がかかっていて草の上へ落ちた。伊右衛門はあわてて傍にあった卒塔婆《そとうば》を抜いて押え、魚籃《びく》に入れるなり卒塔婆を投げだした。卒塔婆は近くに倒れて気を失っていた女乞食の前へ落ちた。それはお梅の母親のお弓であった。お弓は伊右衛門に復讐するために、伊右衛門の所在《ありか》をさがしているところであった。お弓は卒塔婆を取りあげた。其の卒塔婆には俗名民谷伊右衛門と書いてあった。それは伊右衛門の母親が殺人の大罪を犯した我が子のために、世間をごまかすために建てたものであった。
「や、戒名《かいみょう》の下に記した此の名は、父《とと》さんと娘を殺した悪人の名、それではもう此の世にいないのか」
伊右衛門はそれを知った直助にあいずをした。そこで直助はお弓のあいてになった。
「生きてる者に、なんで卒塔婆をたてる、伊右衛門が死んでから、今日でたしか四十九日」
お弓は無念でたまらないようにした。伊右衛門はそろそろと起《た》って往って、いきなり足をあげてお弓を蹴《け》った。お弓はひとたまりもなく川へ落ちて水音をたてた。直助が感心した。
「なるほど、おまえは、悪党だ」
伊右衛門はにやりと笑った。
「これもおぬしに習ったからよ」
此の時長兵衛が頬冠《ほおかむり》してきょろきょろとして来たが、伊右衛門を見つけた。
「民谷氏、此処にござったか」
名を云ってはいけなかった。
「これさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあった菰《こも》が落ちた。其処には水で腐ったお岩の骨ばかりの死骸があった。伊右衛門は恐ろしいので杉戸を前へついた。杉戸は其のひょうしにばったりと裏がえしになった。裏には首へ藻のかかった小平の死骸があった。
九
お袖は山刀を持ってせっせと樒《しきみ》の根をまわしていた。其処は深川法乗院《ふかがわほうじょういん》門前で俗に三角屋敷と云う処であった。お袖は直助といて線香を売っているところであった。
淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の衣服《きもの》が風にひるがえり、其の傍の井戸端には盥《たらい》があって、それにはどろどろになった女物の衣服が浸けてあったが、それは金子屋《かねこや》と云う質屋の手代の庄七《しょうしち》が、質の流れだと云って洗濯物を頼んで来ているものであった。お袖は気になることがあるのか樒の根をまわすことをやめて、盥の傍へ往き、
「此の衣服《きもの》にはどうも見覚えがある、これはたしかに姉《あね》さんの」
其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、干物《ほしもの》を入れねえか」
直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、後《のち》までと軽《かる》う云っておいたよ」
「そうか」そして考えついて叺《かます》の莨入《たばこいれ》から彼《か》の櫛を出して、「此の櫛なら、いくらか貸すだろう」
お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、猿子橋《さるこばし》の下で鰻掻にかかったが、てめえ、何か見覚でもあるのか」
「ある段か、これは姉《あね》さんが、母《かか》さんの形見だと云って、大事にしていた櫛。それに庄七さんに頼まれた彼《あ》の衣服《きもの》と云い、どうしたことだろう」
「おい、これ、馬鹿な事を云うな、世間には幾何《いくら》でも同じ物があらあな」
直助はそれから質屋へ往こうとした。お袖は其の手にすがった。
「衣服は違ってても、櫛はたしかに姉さんの櫛、どうぞ、そればっかりは」
「てめえも馬鹿律気《ばかりちぎ》な。だいち死んだ所天《ていしゅ》へ義理をたてて」
お袖は直助にせまられても与茂七の讐《かたき》が見つかるまではと云って夫婦にならずにいるところであった。お袖はやがて夕飯の準備《したく》に庖厨《かって》へ往った。直助は其の間に質屋へ往くべく門口へ出た。と、其の時傍の盥に浸けてある衣服の中から、痩せ細った手がぬっと出て直助の足をつかんだ。直助は顫《ふる》えあがって手にした櫛を落とした。と、盥の手が引込んだ。
「今のは、たしかに女の手だ」
直助が考えこんでいるところへ、お袖が膳を持って出て来たが、直助が落としてある櫛を見つけた。
「姉さんが、大事がらしやんす櫛じゃと云うに、こんなにして」
お袖は櫛を拾いあげたが、やっぱり米屋のことも気になるのであった。
「栄耀《えよう》につかうではなし、姉さん借してくださいよ」
と云って直助を質屋へやろうとした。そこで直助は、
「そうか、それじゃ往って来ようか」
と云ってお袖から櫛を取ろうとした。と、また盥の中から痩せた手が出て直助の櫛を持った手をつかんだ。
「あ」
直助は驚いてまた櫛を投げだした。が、それはお袖には見えなかった。
「おまえさん、何をそんなに。櫛を何処へやったのですよ」
「盥の中にあらあな、おまえが持ってくがいいや」
お袖は盥の中を覗きこんだが、櫛らしいものは見えなかった。お袖はちょっと其の辺へ眼をやった後で、そっと彼《か》の衣服《きもの》をつかんで振って見た。盥の水は真赤な生なましい血に変わっていた。お袖はびっくりした。と、其の中から一匹の鼠が、彼の櫛をくわえたまま飛びだした。直助はすぐそれを見つけた。
「鼠が、鼠が」
鼠は仏壇へ往って啣《くわ》えていた櫛を置くなり消えてしまった。
一〇
お袖は按摩の宅悦からお岩が伊右衛門のために殺されて神田川に投げこまれたと云うことを聞いて驚いた。それも姉が小平と不義をしたと云って、小平とともに杉戸へ打ちつけられたと聞いては、泣くにも涙が出なかった。直助はお袖を慰めた。
「憎い奴は伊右衛門じゃ、まあ気を
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