南北の東海道四谷怪談
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊藤喜兵衛《いとうきへえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其の時|屏風《びょうぶ》の

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(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]
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       一

 伊藤喜兵衛《いとうきへえ》は孫娘のお梅《うめ》を伴《つ》れて、浅草《あさくさ》観音の額堂《がくどう》の傍《そば》を歩いていた。其の一行にはお梅の乳母のお槇《まき》と医師坊主《いしゃぼうず》の尾扇《びせん》が加わっていた。喜兵衛はお梅を見た。
「どうじゃ、お梅、今日はだいぶ気あいがよさそうなが、それでも、あまり歩いてはよろしくない、駕籠《かご》なと申しつけようか」
「いえ、いえ、わたしは、やっぱりこれがよろしゅうございます」
 お梅は己《じぶん》の家の隣に住んでいる民谷伊右衛門《たみやいえもん》と云う浪人に思いを寄せて病気になっているところであった。其の伊右衛門は同じ家中《かちゅう》の四谷左門《よつやさもん》の娘のお岩《いわ》となれあいで同棲《いっしょ》になっていたが、主家の金を横領したので、お岩が妊娠しているにもかかわらず、左門のために二人の仲をさかれていた。乳母のお槇はお梅の母親のお弓《ゆみ》から楊枝《ようじ》を買うことを云いつけられていた。
「お楊枝を買うことを忘れておりました、お慰みに御覧あそばしませぬか」
 お槇はお梅をはじめ一行を誘って楊枝店へ往った。楊枝店には前日から雇われている四谷左門の養女のお袖《そで》が浴衣《ゆかた》を着て楊枝を削っていた。喜兵衛が声をかけた。
「これこれ、女子《おなご》、いろいろ取り揃えて、これへ出せ」
 お袖は知らぬ顔をしていた。喜兵衛は癪《しゃく》にさわった。
「此の女めは、何をうっかりしておる、早く出さぬか」
 お袖がやっと顔をあげた。
「あなたは、高野《こうや》の御家中《ごかちゅう》でござりますね」
「さようじゃ」
「それなれば、売られませぬ」
「なんじゃと」
「御意《ぎょい》にいらぬ其の時には、どのような祟《たたり》があるかも知れませぬ、他でお求めになるがよろしゅうございます」
 尾扇が喜兵衛の後からぬっと出た。
「こいつ出すぎた女め、そのままにはさしおかぬぞ」
 傍へ来ていた藤八五文《とうはちごもん》の薬売の直助《なおすけ》が中に入った。
「まあ、まあ、どうしたものだ、そんな愛嬌《あいきょう》のない」それから尾扇に、「これは昨日雇われたばかりで、楊枝の値段もろくに判らねえ女でございます、どうかお気にささえないで」
 喜兵衛は尾扇を抑《おさ》えた。
「打っちゃって置くがいい、参詣のさまたげになる」
 喜兵衛はお梅たちを促《うなが》して往ってしまった。直助は其の後でお袖にからんだ。
「お袖さん、大事の体じゃないか、つまらんことを云ってはならんよ。それにしても考えてみれば、四谷左門の娘御が、楊枝店の雇女になるなんどは、これも時世時節《ときよじせつ》と諦《あきら》めるか。申しお袖さん、おめえもまんざら知らぬこともあるまい、いっそおれの情婦《いろ》になり女房になり、なってくれる気はないか」
 直助はお袖に寄りそうた。お袖はむっとした。
「奥田将監《おくだしょうげん》さまは、わたしの父の左門と同じ格式、其の将監さまの小厮《こもの》であったおまえが、わたしをとらえて、なんと云うことだ、ああ嫌らしい」
「おまえだって、こんな処へ来る世の中じゃないか、そんな事を云うものじゃねえやな」
 直助はお袖の肩へ手をかけた。
「ええもう知らないよ」
 お袖は其の手を揮《ふ》りはなして引込んで往った。直助は苦笑した。
「あんなに強情な女もないものだ」

       二

 宅悦《たくえつ》の家では、藤八五文の直助が、奥まった室《へや》でいらいらしていた。直助はお袖の朋輩から、お袖が宅悦の家で地獄かせぎをしていると云うことを聞いて、金で自由にできることならと思って来ているところであった。其処には行燈《あんどん》はあるが、上から風呂敷をかけてあるので、室の中は真暗であった。
「ぜんたい、どうしたのだ」
 其処へお袖が入ってきた。
「おう来たのか、来たのか」
 お袖は手さぐりで直助の傍へ寄って往った。
「待ちかねたよ、お袖さん」
「え」
 お袖は其処ではお紋《もん》と云うことにしていたので驚いた。
「驚くこたあねえよ、おれだよ」
 お袖は其の声で初めて直助と云うことを知った。
「まあおまえは」
 お袖はいきなり起《た》って障子を開けて逃げた。直助は追っかけた。
「まあ、まあ、お袖さん」
 直助はお袖の袂《たもと》をつかんだ。お袖はもう逃げられなかった。
「なんぼなんでもおまえと此の顔が」
「逢わされねえのはもっともだが、お袖さん、おまえは孝行だのう」
 お袖は袂で顔をおおって何も云わなかった。
「まあ坐るがいい、おめえがこんな商売をするのも、みんな親のためだ、おれは何もかも知っている」
「は、はい」
「だからさ、おれの云うことを聞いて、今日かぎり、きれえさっぱりと足を洗ったらどうだ。こんなことが親御に知れたら、昔かたぎの左門さまじゃ」
「わたしも、それが」
「そうだろうとも」懐の紙入から金を出して、「まあ、此の金で、左門さまに袷《あわせ》でも買って著《き》せるがいい」
 お袖は直助の顔をしみじみと見た。
「すみません」
「なに、そんな遠慮はいらねえ、そのかわり、彼方《あっち》へ往って、ゆっくり話そう」
「でも、そればっかりは」
「いいじゃねえか、いつまでもそうつれなくするものじゃない」
 直助はお袖を引っぱるようにして室の中へ入った。其処へ宅悦の女房のお色《いろ》が顔を出した。
「お紋さん、ちょっと」
 お袖は困っているところであった。お袖はすぐ起って出て来た。
「なに、おばさん」
「お客さんだよ」
 お色はお袖を他の室へ伴れて往った。
「おとなしいお客さんだから、大事にしておやりよ」
 お色は其のまま往ってしまった。お袖はちょっと考えていたが、思いきって障子を開けて入った。
「お休みになりまして」
 客がもそりと体を動かした。
「一人で寝るくらいなら、こんな処へ来るものか、此方《こっち》へよんなよ」
 お袖は寄らなかった。
「お願いがございます」
「なんだ」
「わたしの家は、もと武家でございましたが、容子《ようす》あって父が浪人いたしまして」
 お袖は真実《ほんと》と嘘《うそ》をごっちゃにして、客の同情に訴えて、関係しないで金をもらっていた。
「そう聞けば、気のどくだが、親のために花魁《おいらん》になる者もある。それとも許婚《いいなずけ》でもあるのか」
「いえ、そう云うわけでも」
「そんなら何もいいじゃねえか」
 客の手がお袖に来た。
「あれ」
 お袖は思わず飛びのいた。其のはずみに行燈にかけてあった風呂敷がぱらりと落ちた。同時に二人が声をたてた。
「やあ、そちは女房」
「おまえは、与茂七《よもしち》さん」
 客はお袖の許婚の佐藤《さとう》与茂七であった。与茂七は主家が断絶して家中の者がちりぢりになった時、それに交《まじ》って姿をかくしているところであった。与茂七は火のようになった。
「これお袖、このざまはなんだ、男ほしさのいたずらか。あきれて物が云われねえ」
 お袖は口惜《くや》しそうに歯をくいしばった。
「そりゃ、あんまりむごい与茂七さん。おまえこそ、現在わたしと云う女房がありながら、こんな処へ来なさるとは」
 お袖には後暗いことはなかった。二人の心はすぐ解けあった。
 間もなく与茂七とお袖は宅悦の家から『藪の内《やぶのうち》』と書いた提燈《ちょうちん》を借りて出て往った。其の時直助が出て二人の後を見送って閃《きっ》となった。
「目あては提燈だ」

       三

 乞食《こじき》に化けて観音裏の田圃道《たんぼみち》を歩いていた庄三郎は、佐藤与茂七に逢って衣服を取りかえた。与茂七は宅悦の家で借りて来た提燈も庄三郎にやって、
「非人に提燈はいらぬもの、これも貴殿へ」
 と云って往ってしまった。庄三郎は己《じぶん》の風采《なり》を提燈の燈《ひ》で見て、
「こんな容《なり》をしてて、仲間の乞食に見つかっては大変じゃ」
 庄三郎はそれから富士権現《ふじごんげん》の前へ往った。祠《ほこら》の影から頬冠《ほおかむり》した男がそっと出て来て、庄三郎に覘《ねら》い寄り、手にしている出刃で横腹を刳《えぐ》った。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」
 頬冠の男は直助であった。直助は『藪の内』と書いた提燈を目あてにしていたので、庄三郎を与茂七とのみ思いこんでいた。
「これでもか、これでもか」
 惨忍《ざんにん》な直助は庄三郎を斬《き》りさいなんだ。
「これでいい、これでいい」
 直助は思いだして出刃を傍の垣根の中へ投げすてた。と、跫音《あしおと》がいりみだれて駈けだして来る者があった。直助はあわてて傍へ身を隠した。それは四谷左門と伊右衛門の二人が、斬りあいながら来たところであった。伊右衛門は途中で左門に逢ったので、お岩を返してくれと頼んだが、左門が承知しないので左門を殺そうとしていた。
「おのれ、老ぼれ」
「おのれ、悪人」
 左門は斬られて血みどろになっていた。伊右衛門が追いすがってまた一刀をあびせた。左門は倒れてしまった。伊右衛門はそれに止めをさした。
「強情ぬかした老ぼれめ、刀の錆《さび》は自業自得だ」
 其の時傍の闇から直助が顔を出した。
「そう云う声は、たしかに民谷さん」
 伊右衛門は直助の方をきっと見た。
「奥田の小厮《こもの》の直助か、どうして此処へ」
 其の時向うの方で下駄の音がした。伊右衛門と直助は祠の後へ隠れた。下駄の音は近よって来た。それは糸盾《いとだて》を抱えた辻君《つじぎみ》姿の壮《わか》い女であった。
「こんな遅くまで、父さんは何をしていらっしゃることやら」
 小提燈を点《つ》けた女が走って来たが、よほどあわてていると見えて、辻君姿の女にどたりと突きあたった。
「これは、どうも」
 小提燈の女は丁寧に頭をさげた。辻君姿の女は其の顔に眼をつけた。
「あ、おまえは妹」
 小提燈の女も対手《あいて》に眼をつけていた。
「あなたは姉《あね》さん」
 辻君姿の女はお岩で、小提燈の女はお袖であった。お岩は物乞に往っている父親の左門を、お袖は途中で別れた与茂七の後を追うて来たところであった。お袖はお岩のあさましい姿をはっきり見た。
「あなたは、まあ、あさましい、辻君などに」
 お岩はお袖の顔をきっと見た。
「おまえこそ、与茂七さんと云うれっきとした所天《おっと》がありながら、聞けば此の比《ごろ》、味な勤めとやらを」
「え、それは」
「これと云うのも貧がさすわざ、父《とと》さんが二人に隠して、観音さまの地内で袖乞をしておられるから、わたしも辻君になってはおるものの、肌身までは汚しておらぬ」
「それはわたしも同じこと、恥かしい勤めはしても、肌身までは汚しませぬ。それにこんなことをしていたばかりに、今晩与茂七さんに逢うて、同伴《いっしょ》に来る道で、与茂七さんにはぐれたから、それを探しに」
「わたしも父《とと》さんがあまり遅いから、それが気がかりで」
 其の時お岩は地べたで何か見つけた。
「おまえの傍に、それ血が」
 お袖は提燈をかざした。其の燈《あかり》でお岩は左門の死体、お袖は庄三郎の死体を見つけた。
「あ、たいへん、こりゃ父《とと》さん」
「こりゃ与茂七さん」
 お岩は左門の死体に、お袖は与茂七の死体にすがりついて泣いた。祠の陰から此の容子を見ていた伊右衛門と直助が、わざとらしく跫音を大きくして出て来た。
「女の泣声がする、ただ事ではないぞ」伊右衛門はそう云いお岩の傍へ往って、「おまえは、お岩じゃないか」
 お岩は顔をあげた。
「あ、おまえは伊右衛門さん」
 直助はお袖の傍へ往った
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