。
「此方《こっち》にいるのはお袖さんか」
お袖は泣きじゃくりしていた。
「父《とと》さんと同じ所で、此のように」
お岩とお袖は悲しみのあまり自害しようとした。伊右衛門は芝居がかりであった。
「うろたえもの、今姉妹が自害して、親、所天《おっと》の讐《かたき》を何人《たれ》が打つ」
お岩はそこできっとなった。
「それでは、別れた夫婦仲《みょうとなか》でも、讐うちのたよりになってくださりますか」
伊右衛門はお岩を己《じぶん》の有《もの》にできるので心でほくそ笑んだ。
「別れておっても、去り状はやってないから、やっぱり夫婦、舅殿《しゅうとどの》の讐も打たし、妹婿の讐も打たす」
直助はお袖を云いくるめた。
「こうなるからは、是非ともおまえの力になる」
四
雑司ヶ谷《ぞうしがや》の民谷伊右衛門の家では、伊右衛門が内職の提燈を貼りながら按摩の宅悦と話していた。其の話はお岩の産《さん》の手伝に雇入れた小平《こへい》と云う小厮《こもの》が民谷家の家伝のソウセイキと云う薬を窃《ぬす》んで逃げたことであった。其の時|屏風《びょうぶ》の中から手が鳴った。宅悦は腰をあげた。
「はい、はい、お薬でござりますか」
宅悦が屏風の中へ入って往くと、伊右衛門は舌打ちした。
「此のなけなし[#「なけなし」に傍点]の中へ、餓鬼《がき》まで産むとは気のきかねえ、これだから素人の女房は困る」
宅悦は屏風の中から出て七輪へ薬の土瓶をかけて煽《あお》ぎだした。伊右衛門はにがにがしい顔をした。
「お岩の薬か、生れ子の薬か」
「これは、お岩さまのでござります」
其の時|秋山長兵衛《あきやまちょうべえ》が走るように入って来た。
「民谷氏、小平めをつかまえましたぞ、窃《と》って逃げた薬は、これに」
「これは忝《かたじけ》ない」伊右衛門は貼りかけていた提燈を投げ棄てるようにして、長兵衛から小風呂敷の包みをもらい「して、小平めは」
其処へ関口官蔵《せきぐちかんぞう》と中間《ちゅうげん》の伴助《はんすけ》が、小平をぐるぐる巻きにして入って来た。宅悦は小平を口入した責任があった。
「てめえ故に、な、おれまでが、難儀しておるぞ」
伊右衛門は惨忍なことを考えていた。小平ははらはらしていた。
「どうぞ、おゆるしなされてくださりませ」
「ならん、たわけめ、素首《そっくび》を打ち落とす奴《やつ》だが、薬を取りかえしたことだし、それに、昨日立てかえた金をかえせば、生命《いのち》だけは助けてやるが、其のかわり汝《てめえ》の指を、一本一本折るからそう思え」
小平は身をふるわせた。
「旦那さま、お慈悲でござります、そればかりは、どうぞ」
長兵衛がついと出た。
「やかましい」と怒鳴りつけて、それから皆《みんな》に、「さあ、猿轡《さるぐつわ》をはめさっしゃい」
官蔵、伴助、宅悦の三人は、長兵衛に促されて手拭で小平に猿轡をはめ、まず鬢《びん》の毛を脱いた。其の時門口へお梅の乳母のお槇が、中間に酒樽《さかだる》と重詰《じゅうづめ》を持たして来た。
「お頼み申しましょう」
伊右衛門はそれと見て、三人に云いつけて小平を壁厨《おしいれ》へ投げこませ、そしらぬ顔をしてお槇を迎えた。
「さあ、どうか、これへこれへ。御近所におりながら、何時《いつ》も御疎遠つかまつります、御主人にはおかわりなく」
「ありがとうござります、主人喜兵衛はじめ、後家《ごけ》弓とも、よろしく申しました。承わりますれば、御内室お岩さまが、お産がありましたとやら、お麁末《そまつ》でござりますが」
お槇はそこで贈物を前へ出した。伊右衛門はうやうやしかった。
「これは、これは、いつもながら御丁寧に、痛みいります、器物《いれもの》は此方《こちら》よりお返しいたします」
「かしこまりました」それから懐中《かいちゅう》から小《ちい》さな黄《きい》ろな紙で包んだ物を出して、「これは、てまえ隠居の家伝でござりまして、血の道の妙薬でござります、どうかお岩さまへ」
伊右衛門はそれを取って戴いた。
「これはお心づけ忝《かたじけ》のう存ずる、それでは早速」と云って伴助を見て、「これ、てめえ、白湯《さゆ》をしかけろ」
其の時屏風の中で嬰児《あかんぼ》の泣く声がした。お槇が耳をたてた。
「おお、やや[#「やや」に傍点]さま、男の子でござりまするか」
伊右衛門は頷いた。
「さようでござる」
「それはお芽出とうござります、それでは」
お槇の一行が帰って往くと、長兵衛と官蔵がもう樽の口を開け、重詰を出して酒のしたくにかかった。伊右衛門はにんまりした。
「はて、せわしない手あいだのう」
五
伊右衛門は喜兵衛の家から帰って来た。伊右衛門は喜兵衛の家へ礼に往ったところで、たくさんの金を眼の前へ積まれて、一家の者から、
「ぜひとも聟《むこ》になってくれ」
と云われたので、
「お岩と云う、れっきとした女房があり、それに児《こども》まであるから」
と云って、ていさいのいいことを云った。するとお梅が帯の間から剃刀《かみそり》を出して自害しようとするので、驚いていると、今度は喜兵衛が、
「伊右衛門殿、わしを殺してくだされ」
と云って、お梅の可愛さのあまり、伊右衛門とお岩の仲を割くために血の道の妙薬と云って、顔の容《かたち》の変わる毒薬をお槇に持たせてやったと云った。
伊右衛門はそこでお梅を女房にすることにして帰って来たところであった。伊右衛門は上へあがってお岩の寝ている蚊帳の傍へ往った。嬰児《あかんぼ》に添乳をしていたお岩は気配を感じた。
「油を買ってきたの」
お岩は伊右衛門の留守に、油を買いに往った宅悦が帰って来たのだと思った。伊右衛門は顔をさし出すようにした。
「おれだよ」
お岩は其の声で伊右衛門だと云うことを知った。
「伊右衛門殿」
「うむ、今帰ったが、さっきの薬を飲んだか」
「はい、彼《あ》のお薬を服むと、其のまま熱が出て顔が痛うて」
「そうか、顔が」
「痺れるようでござりました」
お岩はそう云いながら蚊帳の裾をめくって出て来た。伊右衛門は其の顔に注意した。お岩の顔は紫色に脹《は》れあがっているうえに、左の瞼《まぶた》が三日月形に突き潰《つぶ》したように垂れていた。それは二目と見られない物凄い顔であった。伊右衛門はさすがに驚いた。
「や、かわった、かわった」
お岩はさっき宅悦が己《じぶん》の顔を見て驚いたと同じように、伊右衛門が驚いたので不思議でたまらなかった。
「私の顔に、何か変わったことでも」
伊右衛門はあわててそれを遮《さえぎ》るようにした。
「な、なに、ちょっとの間に、おまえの顔色がよくなったから、やっぱり彼《あ》の薬がきいたと見える」
お岩は何かしら不安であった。
「顔色がよくなっても、私はなんだか」と云いかけて、急にしんみりして、「もし私が死んでも、此の子のために当分|後妻《のちぞえ》をもたないように頼みます」
お岩は醜くなった眼に涙を浮べた。伊右衛門はかんで吐き出すように云った。
「後妻か、そりゃ持つさ、一人でいられるものか。おまえが死んだら、すぐ持つつもりじゃ」
「え」
「そんなことは、あたりまえじゃないか」
「まあ、なんと云う薄情な」
「どうせおれは薄情だ、こんな薄情者にいつまでもくっついてないで、佳《い》い男でも持って、親仁《おやじ》の讐を打ってもらうがいいよ」
伊右衛門は今夜喜兵衛がお梅を伴れて来ることになっているので、それまでに何とかしてお岩を追いだすようにしなくてはならなかった。お岩は歯をくいしばった。
「何と云う情ないことを、こんな可愛い児まであるに」
「何が可愛い、そんなに可愛けりゃ、くれてやるから伴れて往け。きさまのような不義者《ふぎもの》は、一刻《いっとき》もおくことはできん、さっさと出て往ってくれ」
「何と申します、いつ私が不義をいたしました」
「しらばくれてもだめだ、きさまは彼《あ》の按摩と不義をしているのだ」
「あんまりな、そりゃ、あんまりでござります」
お岩は泣きくずれた。伊右衛門はふと思い出したことがあった。
「そうは云っても、我鬼《がき》まで出来たことじゃ」きろきろと四辺《あたり》へ眼をやり、落ちている櫛を見つけてそれを取り、「良《い》いものがある、これでも持って往こうか」
お岩は其の手にすがりついた。
「あ、それは母《かか》さんの、形見の櫛、そればっかりは、どうぞ」
伊右衛門はじろりと見た。
「いけねえのか」
「そればっかりは、どうぞ」
お岩は一所懸命であった。伊右衛門はしかたなく櫛を投げだした。
「それじゃ、何か出せ、急に金のいることができた」
出せと云っても金になるような物は、これまで全部持ち出しているのであった。お岩は暫く考えていたが、思いだしたようにして起《た》ちあがった。
「それでは、私の」
お岩は帯を解き、襦袢一枚になって、泣く泣く其の衣服を伊右衛門の前へさし出した。伊右衛門はそれをひったくるようにした。
「これだけじゃ、しょうがない。そうじゃ、蚊帳がある」
お岩はあきれた。
「其の蚊帳を持って往かれては、坊やが」
「我鬼なんかどうでもいい、蚊がくうなら、親のやくめじゃ、追ってやれ」
伊右衛門はさっさと蚊帳をはずして、泣きしずむお岩を尻眼にかけて出て往った。
六
お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から亀裂《ひび》の入った火鉢を出して来た。そして、それに蚊遣りをしかけながら宅悦を見た。
「いくらなんでも、あんまりじゃないか、こんなに蚊がいるのに」
宅悦はお岩の鬼魅《きみ》のわるい顔を避けながらもじもじしていた。
「ひどいことをするものだ、男のわしでさえ愛憎《あいそ》がつきた。もし、お岩さん、あんな薄情な男と、何時までいっしょにいねえで、いっそわたしと」
宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手を揮《ふ》り払った。
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら所天《おっと》がどうあろうとも、私は私、けがらわしい。女でこそあれ武士の娘、不義を云いかけるとはもってのほか」
お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうした機《はずみ》か刀が飛んで欄間の下へ突きささった。お岩はよろよろとなった。
「は、はなして」
お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が好奇《ものずき》でも、其のお顔では」
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずに服《の》んだ彼《あ》の薬は、血の道の妙薬どころか、まあ、これを見なさるがよい」
宅悦は櫛畳《くしたとう》から鏡を出した。お岩は急いで鏡に手をかけて己《じぶん》の顔を映したが、己の顔とは思われないので後《うしろ》を見た。
「何人《たれ》ぞ後に」後には何人《たれ》もいなかった。「こりゃ、わしかいの、ほんまにわしの顔かいの」
お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は真箇《ほんと》のことを云わなくてはならなかった。
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と内祝言《ないしゅうげん》をするために、おまえさまを追いださなくては、つごうがわるいからでござりますよ」
お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿《かね》の道具をそろえておくれ、早う、早う」
宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めよ
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