落とさずに時節を待つがいい、きっと俺が讐《かたき》を打ってやる」
お袖は手酌で一ぱい飲んでそれを直助にさした。
「さ、一つ飲んでくださんせ」
直助は盃を執ってお袖に酌をしてもらった。
「これは、御馳走。それにしても女の身では、酒でも飲まずにはいられまい、他人のおれでさえ」
「其の他人にせまいために、女のわたしからさした盃」
「そうか」
「もし、もう祝言はすんだぞえ、親と夫の百ヶ日、今日がすぎれば、今宵から」
「そんならおぬしは」
「操を破って操をたてるわたしが心」
二人は立ててある屏風の中へ入ったところで、表の戸をとんとんと叩く者があった。直助が頭をあげた。
「何人《たれ》だ」
声に応じて外から男の声がした。
「すまねえが、線香を一|把《わ》もらいたい」
直助は忌《いま》いましかった。直助は吐きだすように云った。
「気のどくだが、品ぎれだよ」
「それなら、此処にある樒《しきみ》でけっこうだ」
「だめじゃ、そりゃ一本が百より安くはならねえ、他へ往って買わっしゃるがいい」
外の男はちょっと黙ったが、すぐあわてて声をたてた。
「あれ、あれ、盗人《ぬすっと》が洗濯物を持って往くわ」
直助は飛び起きて雨戸を開けた。其処に一人の男が立っていた。
「これはどうも、つい置き忘れておりまして」
直助は洗濯物を執って入ろうとして対手《あいて》に気が注《つ》くなり、のけぞるようにして驚いた。
「鬼《ゆうれい》だ、鬼だ」
直助は家の内へ飛びこんで、ぴしゃりと雨戸を締めて押えた。お袖も驚いて出て来た。
「何処に、何処に鬼《ゆうれい》が」
其の時外の男の声がした。
「わたしは鬼《ゆうれい》じゃない、此処を開けてくだされ。お眼にかかれば判ります」
お袖が其の声を聞きつけた。
「どうやら、聞きおぼえのある声じゃ」
直助が手を揮《ふ》った。
「いけねえ、それが鬼《ゆうれい》じゃ」
「それでも」
お袖は首をかしげながら起きて往って雨戸を開けた。外の男は与茂七であった。
「おや、おまえは、与茂七さん」
「お袖か、わしは、おぬしの所在を探しておったが、かわった処で、はて面妖《めんよう》な」
「わたしよりおまえさんは、いつぞやの晩、観音裏の田圃道で人手にかかって」
「あれか、あれなら奥田庄三郎だ。彼《あ》の晩、おめえと別れて、庄三郎に逢い、すっかり衣裳をとりかえた」直助の方を見て、「あなたは、浅草で見知りごしの薬売、たしかに其の名も直助殿」
「あ」
直助の驚く一方で、与茂七はお袖を見た。
「して此の人は、なんで今時分来てござる」
お袖はちょっと困ったが、宅悦の置いて往った杖に気が注《つ》いた。
「お、お、それ、按摩じゃわいな」
お袖は死んだと思っていた与茂七が不意に現れたので、身の置きどころに困っていた。お袖は与茂七の讐《かたき》を打ってもらうために、直助に肌をゆるしたのであったが、今となっては其のためにかえってあがきがつかなかった。お袖はいよいよ腹をきめた。お袖は直助に囁《ささや》いた。
「一旦、おまえに大事を頼み、女房となったうえからは、やっぱり女房、与茂七殿に酒を飲まして、わたしが手引する」
そこで直助は外へ出て藪《やぶ》の中へ身をひそめた。そこでお袖は与茂七に囁いた。
「寝酒をすすめて寝かしたうえで、行燈《あんどん》の燈《ひ》を消しますから」
それで与茂七も外へ出た。お袖はそこで時刻をはかって行燈の燈を消した。それと見て直助は出刃を、与茂七は刀を脱いて家の内に入って、屏風の中を目あてに刺しとおした。同時に女の悲鳴が聞こえた。二人は目的を達したと思って屏風をはねのけた。屏風の中にはお袖が血みどろになっていた。其のとたんに月が射した。二人は呆《あき》れて眼を見あわした。
「これはどうした」
「これは」
お袖はやっと顔をあげた。
「与茂七さん、どうか、ゆるしておくれ。それから、直助さんは、養父と姉の讐を討った後で、どうか、小さい時に別れた兄《あに》さんを尋ねて、此のわけを話してくだされ」
お袖には幼い時に別れた一人の兄があった。お袖は苦しそうに懐から一通の書置と、臍《ほぞ》の緒《お》の書きつけを出して直助に渡した。直助は其の臍の緒の書きつけをじっと見た。それには、『元宮三太夫《もとみやさんだゆう》娘|袖《そで》』としてあった。直助は見て仰天した。直助は傍にあった与茂七の刀を取ったかと思うと、いきなりお袖の首を打ちおとした。与茂七は驚いた。
「何故《なぜ》に、そんなことを」
直助はどしりと其処へ坐るなり、其の刀を己《じぶん》の腹に突きたてた。
「与茂七殿、聞いてくだされ」
お袖が探していた幼い時別れた兄は、直助であった。直助は臍の緒の書きつけによって、先刻祝言の盃を交したお袖が妹であったことを知り、其のうえ、観音裏で与茂七と思って殺したのは、もと己《じぶん》の仕えていた主人の息子であった。直助は己のあさましい心を悔《く》いながら死んでいった。
一一
伊右衛門は秋山長兵衛を伴につれて鷹狩に往っていた。二人は彼方此方《あっちこっち》と小鳥を追っているうちに、鷹がそれたので、それを追って往った。
空には月が出て路《みち》ぶちには蛍が飛んでいた。其処に唐茄子《とうなす》を軒に這《は》わした家があって、栗丸太の枝折門《しおりもん》の口には七夕《たなばた》の短冊竹をたててあった。
長兵衛がそれと見て中を覗《のぞ》きに往った。中には縁側付の亭《ちん》座敷があって、夏なりの振袖を著《き》た※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な娘が傍においた明るい行燈の燈で糸車を廻していた。長兵衛は伊右衛門にそれを知らせた。
「美しい女が糸車を廻しております」
「なに美しい女」
「さようでござります」
「それでは其の方が案内して、鷹のことを問うてみぬか」
そこで長兵衛が中へ入って往った。
「鷹がそれて行方が判らなくなったが、もしか此方《こちら》へ」
鷹は行燈の上にとまっていた。娘は莞《にっ》として鷹を見た。
「此処におります」
長兵衛は驚いた。
「いや、こいつは妙々《みょうみょう》」
伊右衛門は長兵衛の知せによって中へ入り、やがて腰の瓢箪《ひょうたん》の酒を出して飲みだした。伊右衛門は娘に惹《ひ》きつけられた。
「そなたの名は」
其の時一枚の短冊が風に吹かれてひらひらと飛んで来た。娘はそれを執《と》って、
「わたしの名はこれでござります」
と云ってさしだした。それには、「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」と百人一首の歌が書いてあった。伊右衛門は頸《くび》をかたむけた。
「これが其方《そち》の名とは」
「岩にせかるる其の岩が、私の名でござります」
伊右衛門はやがて娘を自由にして帰ろうとした。と、娘がその袖を控えたがその娘の顔はお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は飛びあがった。同時に伊右衛門の手にしていた鷹が大きな鼠になって伊右衛門に飛びかかって来た。
「さてこそ執念」
伊右衛門は刀を抜いた。そして、無茶苦茶になって其の辺《あたり》を斬《き》りはらっているうちに、彼《か》の糸車が青い火の玉になってぐるぐると廻りだした。
一二
「これこれ、またおこりましたか。皆《みんな》がいますぞ、いますぞ」
伊右衛門ははっと思って眼をあけた。伊右衛門はお岩の亡霊に悩まされるので、蛇山《へびやま》の庵室《あんしつ》に籠《こも》って、浄念《じょうねん》と云う坊主に祈祷《きとう》してもらっているところであった。
外には雪が降っていた。伊右衛門は行燈に燈を入れ、それから門口の流れ灌頂《かんじょう》の傍へ往って手桶の水をかけた。
「産後に死んだ女房子の、せめて未来を」
するとかけた水が心火《しんか》になって燃え、其の中からお岩の嬰児《あかんぼ》を抱いた姿があらわれた。
伊右衛門は驚いて庵室の内に入った。中にはさっき狂乱して引きちぎった紙帳《しちょう》がばらばらになっていた。お岩の亡霊も跟《つ》いて入って来た。伊右衛門はふるえあがった。
「お岩、もういいかげんに成仏《じょうぶつ》してくれ」
と、お岩がゆらゆらと寄って来て、抱いていた嬰児を伊右衛門の前へさし出した。
「死んだと思ったら、それでは其方《そち》が育てていたのか」
伊右衛門はうれしそうにその嬰児をお岩の手から執った。同時にたくさんの鼠が出た。伊右衛門は驚いたひょうしに抱いていた嬰児を執り落した。嬰児は畳の上にずしりと云う音をたてた。それは石地蔵であった。其の時傍にいた母のお熊《くま》がきゃっと云ってのけぞった。お熊の咽喉ぶえにお岩が口をやっているところであった。
「おのれ」
伊右衛門は刀を抜いて其の辺《あたり》を狂い廻ったが、気が注《つ》いた時には、己《じぶん》を捕えに来ている大勢の捕手を一人残らず斬り伏せていた。伊右衛門は其のまま其処《そこ》を走り出た。と、其の眼の前へ、
「伊右衛門待て」
と云って駈け出して来た者があった。それは与茂七であった。
「其の方は与茂七か」
伊右衛門はきっとなって身がまえした。与茂七は刀を脱いた。
「お袖のためには義理の姉、お岩の讐《かたき》じゃ、覚悟せよ」
「なにを」
伊右衛門は与茂七を斬り伏せようとした。と、何処からともなく又|数多《たくさん》の鼠が出て、伊右衛門の揮《ふる》っている刀にからみついた。其のひょうしに伊右衛門は刀を執《と》り落した。其処を与茂七が、
「おのれ」
と云って肩から斜《はす》に斬りおろした。伊右衛門の体は朱《あけ》に染まって雪の上へ倒れた。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集 物語篇」改造社
1938(昭和13)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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