うとしたが止められなかった。宅悦はしかたなく鉄漿の道具を持って来た。お岩は体をふるわしながら鉄漿を付け、それから髪を櫛《す》きにかかったが、櫛《くし》を入れるたびに毛が脱けて、其の後から血がたらたらと流れた。
「やや、脱毛《ぬけげ》から滴《したた》る生血《なまち》は」よろよろと起きあがって、「一念|貫《とお》さでおくべきか」
 宅悦は泣きだした嬰児《あかんぼ》を抱いていた。
「これ、お岩さま、もし、もし」
 宅悦はお岩の傍へよって片手を其の肩へかけた。お岩の体はよろよろとなって倒れかかった。其処には鴨居に刺さっていた刀が落ちかかっていたので、お岩の咽喉《のど》は其の刀へ往った。
「う、う」
 どす黒い血がお岩の顔から体を染めた。宅悦はふるえあがった。
「た、たい、へんだ、たいへんだ」
 其の時|何処《どこ》からともなく一匹の猫が来た。
「こん畜生、死人に猫は禁物だ」
 宅悦は猫を追った。其の途端に欄間の上から大きな鼠が猫を咬《くわ》えて出て来たが、すぐ畳の上へ落とした。宅悦は嬰児を寝かすなり表へ走り出た。門の外には伊右衛門が裃《かみしも》をつけて立っていた。
「按摩か、首尾はよいか」

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