顔を出した。
「そう云う声は、たしかに民谷さん」
 伊右衛門は直助の方をきっと見た。
「奥田の小厮《こもの》の直助か、どうして此処へ」
 其の時向うの方で下駄の音がした。伊右衛門と直助は祠の後へ隠れた。下駄の音は近よって来た。それは糸盾《いとだて》を抱えた辻君《つじぎみ》姿の壮《わか》い女であった。
「こんな遅くまで、父さんは何をしていらっしゃることやら」
 小提燈を点《つ》けた女が走って来たが、よほどあわてていると見えて、辻君姿の女にどたりと突きあたった。
「これは、どうも」
 小提燈の女は丁寧に頭をさげた。辻君姿の女は其の顔に眼をつけた。
「あ、おまえは妹」
 小提燈の女も対手《あいて》に眼をつけていた。
「あなたは姉《あね》さん」
 辻君姿の女はお岩で、小提燈の女はお袖であった。お岩は物乞に往っている父親の左門を、お袖は途中で別れた与茂七の後を追うて来たところであった。お袖はお岩のあさましい姿をはっきり見た。
「あなたは、まあ、あさましい、辻君などに」
 お岩はお袖の顔をきっと見た。
「おまえこそ、与茂七さんと云うれっきとした所天《おっと》がありながら、聞けば此の比《ごろ》、味な勤めとやらを」
「え、それは」
「これと云うのも貧がさすわざ、父《とと》さんが二人に隠して、観音さまの地内で袖乞をしておられるから、わたしも辻君になってはおるものの、肌身までは汚しておらぬ」
「それはわたしも同じこと、恥かしい勤めはしても、肌身までは汚しませぬ。それにこんなことをしていたばかりに、今晩与茂七さんに逢うて、同伴《いっしょ》に来る道で、与茂七さんにはぐれたから、それを探しに」
「わたしも父《とと》さんがあまり遅いから、それが気がかりで」
 其の時お岩は地べたで何か見つけた。
「おまえの傍に、それ血が」
 お袖は提燈をかざした。其の燈《あかり》でお岩は左門の死体、お袖は庄三郎の死体を見つけた。
「あ、たいへん、こりゃ父《とと》さん」
「こりゃ与茂七さん」
 お岩は左門の死体に、お袖は与茂七の死体にすがりついて泣いた。祠の陰から此の容子を見ていた伊右衛門と直助が、わざとらしく跫音を大きくして出て来た。
「女の泣声がする、ただ事ではないぞ」伊右衛門はそう云いお岩の傍へ往って、「おまえは、お岩じゃないか」
 お岩は顔をあげた。
「あ、おまえは伊右衛門さん」
 直助はお袖の傍へ往った。
「此方《こっち》にいるのはお袖さんか」
 お袖は泣きじゃくりしていた。
「父《とと》さんと同じ所で、此のように」
 お岩とお袖は悲しみのあまり自害しようとした。伊右衛門は芝居がかりであった。
「うろたえもの、今姉妹が自害して、親、所天《おっと》の讐《かたき》を何人《たれ》が打つ」
 お岩はそこできっとなった。
「それでは、別れた夫婦仲《みょうとなか》でも、讐うちのたよりになってくださりますか」
 伊右衛門はお岩を己《じぶん》の有《もの》にできるので心でほくそ笑んだ。
「別れておっても、去り状はやってないから、やっぱり夫婦、舅殿《しゅうとどの》の讐も打たし、妹婿の讐も打たす」
 直助はお袖を云いくるめた。
「こうなるからは、是非ともおまえの力になる」

       四

 雑司ヶ谷《ぞうしがや》の民谷伊右衛門の家では、伊右衛門が内職の提燈を貼りながら按摩の宅悦と話していた。其の話はお岩の産《さん》の手伝に雇入れた小平《こへい》と云う小厮《こもの》が民谷家の家伝のソウセイキと云う薬を窃《ぬす》んで逃げたことであった。其の時|屏風《びょうぶ》の中から手が鳴った。宅悦は腰をあげた。
「はい、はい、お薬でござりますか」
 宅悦が屏風の中へ入って往くと、伊右衛門は舌打ちした。
「此のなけなし[#「なけなし」に傍点]の中へ、餓鬼《がき》まで産むとは気のきかねえ、これだから素人の女房は困る」
 宅悦は屏風の中から出て七輪へ薬の土瓶をかけて煽《あお》ぎだした。伊右衛門はにがにがしい顔をした。
「お岩の薬か、生れ子の薬か」
「これは、お岩さまのでござります」
 其の時|秋山長兵衛《あきやまちょうべえ》が走るように入って来た。
「民谷氏、小平めをつかまえましたぞ、窃《と》って逃げた薬は、これに」
「これは忝《かたじけ》ない」伊右衛門は貼りかけていた提燈を投げ棄てるようにして、長兵衛から小風呂敷の包みをもらい「して、小平めは」
 其処へ関口官蔵《せきぐちかんぞう》と中間《ちゅうげん》の伴助《はんすけ》が、小平をぐるぐる巻きにして入って来た。宅悦は小平を口入した責任があった。
「てめえ故に、な、おれまでが、難儀しておるぞ」
 伊右衛門は惨忍なことを考えていた。小平ははらはらしていた。
「どうぞ、おゆるしなされてくださりませ」
「ならん、たわけめ、素首《そっくび》を打ち落とす奴《やつ》だ
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