南北の東海道四谷怪談
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊藤喜兵衛《いとうきへえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其の時|屏風《びょうぶ》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]
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       一

 伊藤喜兵衛《いとうきへえ》は孫娘のお梅《うめ》を伴《つ》れて、浅草《あさくさ》観音の額堂《がくどう》の傍《そば》を歩いていた。其の一行にはお梅の乳母のお槇《まき》と医師坊主《いしゃぼうず》の尾扇《びせん》が加わっていた。喜兵衛はお梅を見た。
「どうじゃ、お梅、今日はだいぶ気あいがよさそうなが、それでも、あまり歩いてはよろしくない、駕籠《かご》なと申しつけようか」
「いえ、いえ、わたしは、やっぱりこれがよろしゅうございます」
 お梅は己《じぶん》の家の隣に住んでいる民谷伊右衛門《たみやいえもん》と云う浪人に思いを寄せて病気になっているところであった。其の伊右衛門は同じ家中《かちゅう》の四谷左門《よつやさもん》の娘のお岩《いわ》となれあいで同棲《いっしょ》になっていたが、主家の金を横領したので、お岩が妊娠しているにもかかわらず、左門のために二人の仲をさかれていた。乳母のお槇はお梅の母親のお弓《ゆみ》から楊枝《ようじ》を買うことを云いつけられていた。
「お楊枝を買うことを忘れておりました、お慰みに御覧あそばしませぬか」
 お槇はお梅をはじめ一行を誘って楊枝店へ往った。楊枝店には前日から雇われている四谷左門の養女のお袖《そで》が浴衣《ゆかた》を着て楊枝を削っていた。喜兵衛が声をかけた。
「これこれ、女子《おなご》、いろいろ取り揃えて、これへ出せ」
 お袖は知らぬ顔をしていた。喜兵衛は癪《しゃく》にさわった。
「此の女めは、何をうっかりしておる、早く出さぬか」
 お袖がやっと顔をあげた。
「あなたは、高野《こうや》の御家中《ごかちゅう》でござりますね」
「さようじゃ」
「それなれば、売られませぬ」
「なんじゃと」
「御意《ぎょい》にいらぬ其の時には、どのような祟《たたり》があるかも知れませぬ、他でお求めになるがよろしゅうございます」
 尾扇が喜兵衛の後からぬっと出た。
「こいつ出すぎた女め、そのままにはさしおかぬぞ」
 傍へ来ていた藤八五文《とうはちごもん》の薬売の直助《なおすけ》が中に入った。
「まあ、まあ、どうしたものだ、そんな愛嬌《あいきょう》のない」それから尾扇に、「これは昨日雇われたばかりで、楊枝の値段もろくに判らねえ女でございます、どうかお気にささえないで」
 喜兵衛は尾扇を抑《おさ》えた。
「打っちゃって置くがいい、参詣のさまたげになる」
 喜兵衛はお梅たちを促《うなが》して往ってしまった。直助は其の後でお袖にからんだ。
「お袖さん、大事の体じゃないか、つまらんことを云ってはならんよ。それにしても考えてみれば、四谷左門の娘御が、楊枝店の雇女になるなんどは、これも時世時節《ときよじせつ》と諦《あきら》めるか。申しお袖さん、おめえもまんざら知らぬこともあるまい、いっそおれの情婦《いろ》になり女房になり、なってくれる気はないか」
 直助はお袖に寄りそうた。お袖はむっとした。
「奥田将監《おくだしょうげん》さまは、わたしの父の左門と同じ格式、其の将監さまの小厮《こもの》であったおまえが、わたしをとらえて、なんと云うことだ、ああ嫌らしい」
「おまえだって、こんな処へ来る世の中じゃないか、そんな事を云うものじゃねえやな」
 直助はお袖の肩へ手をかけた。
「ええもう知らないよ」
 お袖は其の手を揮《ふ》りはなして引込んで往った。直助は苦笑した。
「あんなに強情な女もないものだ」

       二

 宅悦《たくえつ》の家では、藤八五文の直助が、奥まった室《へや》でいらいらしていた。直助はお袖の朋輩から、お袖が宅悦の家で地獄かせぎをしていると云うことを聞いて、金で自由にできることならと思って来ているところであった。其処には行燈《あんどん》はあるが、上から風呂敷をかけてあるので、室の中は真暗であった。
「ぜんたい、どうしたのだ」
 其処へお袖が入ってきた。
「おう来たのか、来たのか」
 お袖は手さぐりで直助の傍へ寄って往った。
「待ちかねたよ、お袖さん」
「え」
 お袖は其処ではお紋《もん》と云うことにしていたので驚いた。
「驚くこたあねえよ、おれだよ」
 お袖は其の声で初めて直助と云うことを知った。
「まあおまえは」
 お袖はいきなり起《た》って障子を開けて逃げた。直助は追っかけた。
「まあ、まあ、お袖さん」
 直助はお袖の
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