袂《たもと》をつかんだ。お袖はもう逃げられなかった。
「なんぼなんでもおまえと此の顔が」
「逢わされねえのはもっともだが、お袖さん、おまえは孝行だのう」
お袖は袂で顔をおおって何も云わなかった。
「まあ坐るがいい、おめえがこんな商売をするのも、みんな親のためだ、おれは何もかも知っている」
「は、はい」
「だからさ、おれの云うことを聞いて、今日かぎり、きれえさっぱりと足を洗ったらどうだ。こんなことが親御に知れたら、昔かたぎの左門さまじゃ」
「わたしも、それが」
「そうだろうとも」懐の紙入から金を出して、「まあ、此の金で、左門さまに袷《あわせ》でも買って著《き》せるがいい」
お袖は直助の顔をしみじみと見た。
「すみません」
「なに、そんな遠慮はいらねえ、そのかわり、彼方《あっち》へ往って、ゆっくり話そう」
「でも、そればっかりは」
「いいじゃねえか、いつまでもそうつれなくするものじゃない」
直助はお袖を引っぱるようにして室の中へ入った。其処へ宅悦の女房のお色《いろ》が顔を出した。
「お紋さん、ちょっと」
お袖は困っているところであった。お袖はすぐ起って出て来た。
「なに、おばさん」
「お客さんだよ」
お色はお袖を他の室へ伴れて往った。
「おとなしいお客さんだから、大事にしておやりよ」
お色は其のまま往ってしまった。お袖はちょっと考えていたが、思いきって障子を開けて入った。
「お休みになりまして」
客がもそりと体を動かした。
「一人で寝るくらいなら、こんな処へ来るものか、此方《こっち》へよんなよ」
お袖は寄らなかった。
「お願いがございます」
「なんだ」
「わたしの家は、もと武家でございましたが、容子《ようす》あって父が浪人いたしまして」
お袖は真実《ほんと》と嘘《うそ》をごっちゃにして、客の同情に訴えて、関係しないで金をもらっていた。
「そう聞けば、気のどくだが、親のために花魁《おいらん》になる者もある。それとも許婚《いいなずけ》でもあるのか」
「いえ、そう云うわけでも」
「そんなら何もいいじゃねえか」
客の手がお袖に来た。
「あれ」
お袖は思わず飛びのいた。其のはずみに行燈にかけてあった風呂敷がぱらりと落ちた。同時に二人が声をたてた。
「やあ、そちは女房」
「おまえは、与茂七《よもしち》さん」
客はお袖の許婚の佐藤《さとう》与茂七であった。与茂七は主家が断絶して家中の者がちりぢりになった時、それに交《まじ》って姿をかくしているところであった。与茂七は火のようになった。
「これお袖、このざまはなんだ、男ほしさのいたずらか。あきれて物が云われねえ」
お袖は口惜《くや》しそうに歯をくいしばった。
「そりゃ、あんまりむごい与茂七さん。おまえこそ、現在わたしと云う女房がありながら、こんな処へ来なさるとは」
お袖には後暗いことはなかった。二人の心はすぐ解けあった。
間もなく与茂七とお袖は宅悦の家から『藪の内《やぶのうち》』と書いた提燈《ちょうちん》を借りて出て往った。其の時直助が出て二人の後を見送って閃《きっ》となった。
「目あては提燈だ」
三
乞食《こじき》に化けて観音裏の田圃道《たんぼみち》を歩いていた庄三郎は、佐藤与茂七に逢って衣服を取りかえた。与茂七は宅悦の家で借りて来た提燈も庄三郎にやって、
「非人に提燈はいらぬもの、これも貴殿へ」
と云って往ってしまった。庄三郎は己《じぶん》の風采《なり》を提燈の燈《ひ》で見て、
「こんな容《なり》をしてて、仲間の乞食に見つかっては大変じゃ」
庄三郎はそれから富士権現《ふじごんげん》の前へ往った。祠《ほこら》の影から頬冠《ほおかむり》した男がそっと出て来て、庄三郎に覘《ねら》い寄り、手にしている出刃で横腹を刳《えぐ》った。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」
頬冠の男は直助であった。直助は『藪の内』と書いた提燈を目あてにしていたので、庄三郎を与茂七とのみ思いこんでいた。
「これでもか、これでもか」
惨忍《ざんにん》な直助は庄三郎を斬《き》りさいなんだ。
「これでいい、これでいい」
直助は思いだして出刃を傍の垣根の中へ投げすてた。と、跫音《あしおと》がいりみだれて駈けだして来る者があった。直助はあわてて傍へ身を隠した。それは四谷左門と伊右衛門の二人が、斬りあいながら来たところであった。伊右衛門は途中で左門に逢ったので、お岩を返してくれと頼んだが、左門が承知しないので左門を殺そうとしていた。
「おのれ、老ぼれ」
「おのれ、悪人」
左門は斬られて血みどろになっていた。伊右衛門が追いすがってまた一刀をあびせた。左門は倒れてしまった。伊右衛門はそれに止めをさした。
「強情ぬかした老ぼれめ、刀の錆《さび》は自業自得だ」
其の時傍の闇から直助が
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