が、薬を取りかえしたことだし、それに、昨日立てかえた金をかえせば、生命《いのち》だけは助けてやるが、其のかわり汝《てめえ》の指を、一本一本折るからそう思え」
 小平は身をふるわせた。
「旦那さま、お慈悲でござります、そればかりは、どうぞ」
 長兵衛がついと出た。
「やかましい」と怒鳴りつけて、それから皆《みんな》に、「さあ、猿轡《さるぐつわ》をはめさっしゃい」
 官蔵、伴助、宅悦の三人は、長兵衛に促されて手拭で小平に猿轡をはめ、まず鬢《びん》の毛を脱いた。其の時門口へお梅の乳母のお槇が、中間に酒樽《さかだる》と重詰《じゅうづめ》を持たして来た。
「お頼み申しましょう」
 伊右衛門はそれと見て、三人に云いつけて小平を壁厨《おしいれ》へ投げこませ、そしらぬ顔をしてお槇を迎えた。
「さあ、どうか、これへこれへ。御近所におりながら、何時《いつ》も御疎遠つかまつります、御主人にはおかわりなく」
「ありがとうござります、主人喜兵衛はじめ、後家《ごけ》弓とも、よろしく申しました。承わりますれば、御内室お岩さまが、お産がありましたとやら、お麁末《そまつ》でござりますが」
 お槇はそこで贈物を前へ出した。伊右衛門はうやうやしかった。
「これは、これは、いつもながら御丁寧に、痛みいります、器物《いれもの》は此方《こちら》よりお返しいたします」
「かしこまりました」それから懐中《かいちゅう》から小《ちい》さな黄《きい》ろな紙で包んだ物を出して、「これは、てまえ隠居の家伝でござりまして、血の道の妙薬でござります、どうかお岩さまへ」
 伊右衛門はそれを取って戴いた。
「これはお心づけ忝《かたじけ》のう存ずる、それでは早速」と云って伴助を見て、「これ、てめえ、白湯《さゆ》をしかけろ」
 其の時屏風の中で嬰児《あかんぼ》の泣く声がした。お槇が耳をたてた。
「おお、やや[#「やや」に傍点]さま、男の子でござりまするか」
 伊右衛門は頷いた。
「さようでござる」
「それはお芽出とうござります、それでは」
 お槇の一行が帰って往くと、長兵衛と官蔵がもう樽の口を開け、重詰を出して酒のしたくにかかった。伊右衛門はにんまりした。
「はて、せわしない手あいだのう」

       五

 伊右衛門は喜兵衛の家から帰って来た。伊右衛門は喜兵衛の家へ礼に往ったところで、たくさんの金を眼の前へ積まれて、一家の者から、
「ぜひとも聟《むこ》になってくれ」
 と云われたので、
「お岩と云う、れっきとした女房があり、それに児《こども》まであるから」
 と云って、ていさいのいいことを云った。するとお梅が帯の間から剃刀《かみそり》を出して自害しようとするので、驚いていると、今度は喜兵衛が、
「伊右衛門殿、わしを殺してくだされ」
 と云って、お梅の可愛さのあまり、伊右衛門とお岩の仲を割くために血の道の妙薬と云って、顔の容《かたち》の変わる毒薬をお槇に持たせてやったと云った。
 伊右衛門はそこでお梅を女房にすることにして帰って来たところであった。伊右衛門は上へあがってお岩の寝ている蚊帳の傍へ往った。嬰児《あかんぼ》に添乳をしていたお岩は気配を感じた。
「油を買ってきたの」
 お岩は伊右衛門の留守に、油を買いに往った宅悦が帰って来たのだと思った。伊右衛門は顔をさし出すようにした。
「おれだよ」
 お岩は其の声で伊右衛門だと云うことを知った。
「伊右衛門殿」
「うむ、今帰ったが、さっきの薬を飲んだか」
「はい、彼《あ》のお薬を服むと、其のまま熱が出て顔が痛うて」
「そうか、顔が」
「痺れるようでござりました」
 お岩はそう云いながら蚊帳の裾をめくって出て来た。伊右衛門は其の顔に注意した。お岩の顔は紫色に脹《は》れあがっているうえに、左の瞼《まぶた》が三日月形に突き潰《つぶ》したように垂れていた。それは二目と見られない物凄い顔であった。伊右衛門はさすがに驚いた。
「や、かわった、かわった」
 お岩はさっき宅悦が己《じぶん》の顔を見て驚いたと同じように、伊右衛門が驚いたので不思議でたまらなかった。
「私の顔に、何か変わったことでも」
 伊右衛門はあわててそれを遮《さえぎ》るようにした。
「な、なに、ちょっとの間に、おまえの顔色がよくなったから、やっぱり彼《あ》の薬がきいたと見える」
 お岩は何かしら不安であった。
「顔色がよくなっても、私はなんだか」と云いかけて、急にしんみりして、「もし私が死んでも、此の子のために当分|後妻《のちぞえ》をもたないように頼みます」
 お岩は醜くなった眼に涙を浮べた。伊右衛門はかんで吐き出すように云った。
「後妻か、そりゃ持つさ、一人でいられるものか。おまえが死んだら、すぐ持つつもりじゃ」
「え」
「そんなことは、あたりまえじゃないか」
「まあ、なんと云う薄情な」

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