どうせおれは薄情だ、こんな薄情者にいつまでもくっついてないで、佳《い》い男でも持って、親仁《おやじ》の讐を打ってもらうがいいよ」
 伊右衛門は今夜喜兵衛がお梅を伴れて来ることになっているので、それまでに何とかしてお岩を追いだすようにしなくてはならなかった。お岩は歯をくいしばった。
「何と云う情ないことを、こんな可愛い児まであるに」
「何が可愛い、そんなに可愛けりゃ、くれてやるから伴れて往け。きさまのような不義者《ふぎもの》は、一刻《いっとき》もおくことはできん、さっさと出て往ってくれ」
「何と申します、いつ私が不義をいたしました」
「しらばくれてもだめだ、きさまは彼《あ》の按摩と不義をしているのだ」
「あんまりな、そりゃ、あんまりでござります」
 お岩は泣きくずれた。伊右衛門はふと思い出したことがあった。
「そうは云っても、我鬼《がき》まで出来たことじゃ」きろきろと四辺《あたり》へ眼をやり、落ちている櫛を見つけてそれを取り、「良《い》いものがある、これでも持って往こうか」
 お岩は其の手にすがりついた。
「あ、それは母《かか》さんの、形見の櫛、そればっかりは、どうぞ」
 伊右衛門はじろりと見た。
「いけねえのか」
「そればっかりは、どうぞ」
 お岩は一所懸命であった。伊右衛門はしかたなく櫛を投げだした。
「それじゃ、何か出せ、急に金のいることができた」
 出せと云っても金になるような物は、これまで全部持ち出しているのであった。お岩は暫く考えていたが、思いだしたようにして起《た》ちあがった。
「それでは、私の」
 お岩は帯を解き、襦袢一枚になって、泣く泣く其の衣服を伊右衛門の前へさし出した。伊右衛門はそれをひったくるようにした。
「これだけじゃ、しょうがない。そうじゃ、蚊帳がある」
 お岩はあきれた。
「其の蚊帳を持って往かれては、坊やが」
「我鬼なんかどうでもいい、蚊がくうなら、親のやくめじゃ、追ってやれ」
 伊右衛門はさっさと蚊帳をはずして、泣きしずむお岩を尻眼にかけて出て往った。

       六

 お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から亀裂《ひび》の入った火鉢を出して来た。そして、それに蚊遣りをしかけながら宅悦を見た。
「いくらなんでも、あんまりじゃないか、こんなに蚊がいるのに」
 宅悦はお岩の鬼魅《きみ》のわるい顔を避けながらもじもじしていた。
「ひどいことをするものだ、男のわしでさえ愛憎《あいそ》がつきた。もし、お岩さん、あんな薄情な男と、何時までいっしょにいねえで、いっそわたしと」
 宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手を揮《ふ》り払った。
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
 宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら所天《おっと》がどうあろうとも、私は私、けがらわしい。女でこそあれ武士の娘、不義を云いかけるとはもってのほか」
 お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
 宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうした機《はずみ》か刀が飛んで欄間の下へ突きささった。お岩はよろよろとなった。
「は、はなして」
 お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が好奇《ものずき》でも、其のお顔では」
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずに服《の》んだ彼《あ》の薬は、血の道の妙薬どころか、まあ、これを見なさるがよい」
 宅悦は櫛畳《くしたとう》から鏡を出した。お岩は急いで鏡に手をかけて己《じぶん》の顔を映したが、己の顔とは思われないので後《うしろ》を見た。
「何人《たれ》ぞ後に」後には何人《たれ》もいなかった。「こりゃ、わしかいの、ほんまにわしの顔かいの」
 お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は真箇《ほんと》のことを云わなくてはならなかった。
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と内祝言《ないしゅうげん》をするために、おまえさまを追いださなくては、つごうがわるいからでござりますよ」
 お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿《かね》の道具をそろえておくれ、早う、早う」
 宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
 宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めよ
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