「あなたは、浅草で見知りごしの薬売、たしかに其の名も直助殿」
「あ」
直助の驚く一方で、与茂七はお袖を見た。
「して此の人は、なんで今時分来てござる」
お袖はちょっと困ったが、宅悦の置いて往った杖に気が注《つ》いた。
「お、お、それ、按摩じゃわいな」
お袖は死んだと思っていた与茂七が不意に現れたので、身の置きどころに困っていた。お袖は与茂七の讐《かたき》を打ってもらうために、直助に肌をゆるしたのであったが、今となっては其のためにかえってあがきがつかなかった。お袖はいよいよ腹をきめた。お袖は直助に囁《ささや》いた。
「一旦、おまえに大事を頼み、女房となったうえからは、やっぱり女房、与茂七殿に酒を飲まして、わたしが手引する」
そこで直助は外へ出て藪《やぶ》の中へ身をひそめた。そこでお袖は与茂七に囁いた。
「寝酒をすすめて寝かしたうえで、行燈《あんどん》の燈《ひ》を消しますから」
それで与茂七も外へ出た。お袖はそこで時刻をはかって行燈の燈を消した。それと見て直助は出刃を、与茂七は刀を脱いて家の内に入って、屏風の中を目あてに刺しとおした。同時に女の悲鳴が聞こえた。二人は目的を達したと思って屏風をはねのけた。屏風の中にはお袖が血みどろになっていた。其のとたんに月が射した。二人は呆《あき》れて眼を見あわした。
「これはどうした」
「これは」
お袖はやっと顔をあげた。
「与茂七さん、どうか、ゆるしておくれ。それから、直助さんは、養父と姉の讐を討った後で、どうか、小さい時に別れた兄《あに》さんを尋ねて、此のわけを話してくだされ」
お袖には幼い時に別れた一人の兄があった。お袖は苦しそうに懐から一通の書置と、臍《ほぞ》の緒《お》の書きつけを出して直助に渡した。直助は其の臍の緒の書きつけをじっと見た。それには、『元宮三太夫《もとみやさんだゆう》娘|袖《そで》』としてあった。直助は見て仰天した。直助は傍にあった与茂七の刀を取ったかと思うと、いきなりお袖の首を打ちおとした。与茂七は驚いた。
「何故《なぜ》に、そんなことを」
直助はどしりと其処へ坐るなり、其の刀を己《じぶん》の腹に突きたてた。
「与茂七殿、聞いてくだされ」
お袖が探していた幼い時別れた兄は、直助であった。直助は臍の緒の書きつけによって、先刻祝言の盃を交したお袖が妹であったことを知り、其のうえ、観音裏で与茂七と思って殺したのは、もと己《じぶん》の仕えていた主人の息子であった。直助は己のあさましい心を悔《く》いながら死んでいった。
一一
伊右衛門は秋山長兵衛を伴につれて鷹狩に往っていた。二人は彼方此方《あっちこっち》と小鳥を追っているうちに、鷹がそれたので、それを追って往った。
空には月が出て路《みち》ぶちには蛍が飛んでいた。其処に唐茄子《とうなす》を軒に這《は》わした家があって、栗丸太の枝折門《しおりもん》の口には七夕《たなばた》の短冊竹をたててあった。
長兵衛がそれと見て中を覗《のぞ》きに往った。中には縁側付の亭《ちん》座敷があって、夏なりの振袖を著《き》た※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な娘が傍においた明るい行燈の燈で糸車を廻していた。長兵衛は伊右衛門にそれを知らせた。
「美しい女が糸車を廻しております」
「なに美しい女」
「さようでござります」
「それでは其の方が案内して、鷹のことを問うてみぬか」
そこで長兵衛が中へ入って往った。
「鷹がそれて行方が判らなくなったが、もしか此方《こちら》へ」
鷹は行燈の上にとまっていた。娘は莞《にっ》として鷹を見た。
「此処におります」
長兵衛は驚いた。
「いや、こいつは妙々《みょうみょう》」
伊右衛門は長兵衛の知せによって中へ入り、やがて腰の瓢箪《ひょうたん》の酒を出して飲みだした。伊右衛門は娘に惹《ひ》きつけられた。
「そなたの名は」
其の時一枚の短冊が風に吹かれてひらひらと飛んで来た。娘はそれを執《と》って、
「わたしの名はこれでござります」
と云ってさしだした。それには、「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」と百人一首の歌が書いてあった。伊右衛門は頸《くび》をかたむけた。
「これが其方《そち》の名とは」
「岩にせかるる其の岩が、私の名でござります」
伊右衛門はやがて娘を自由にして帰ろうとした。と、娘がその袖を控えたがその娘の顔はお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は飛びあがった。同時に伊右衛門の手にしていた鷹が大きな鼠になって伊右衛門に飛びかかって来た。
「さてこそ執念」
伊右衛門は刀を抜いた。そして、無茶苦茶になって其の辺《あたり》を斬《き》りはらっているうちに、彼《か》の糸車が青い火の玉になってぐるぐると廻りだした。
一二
「これこれ、またおこりま
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