したか。皆《みんな》がいますぞ、いますぞ」
伊右衛門ははっと思って眼をあけた。伊右衛門はお岩の亡霊に悩まされるので、蛇山《へびやま》の庵室《あんしつ》に籠《こも》って、浄念《じょうねん》と云う坊主に祈祷《きとう》してもらっているところであった。
外には雪が降っていた。伊右衛門は行燈に燈を入れ、それから門口の流れ灌頂《かんじょう》の傍へ往って手桶の水をかけた。
「産後に死んだ女房子の、せめて未来を」
するとかけた水が心火《しんか》になって燃え、其の中からお岩の嬰児《あかんぼ》を抱いた姿があらわれた。
伊右衛門は驚いて庵室の内に入った。中にはさっき狂乱して引きちぎった紙帳《しちょう》がばらばらになっていた。お岩の亡霊も跟《つ》いて入って来た。伊右衛門はふるえあがった。
「お岩、もういいかげんに成仏《じょうぶつ》してくれ」
と、お岩がゆらゆらと寄って来て、抱いていた嬰児を伊右衛門の前へさし出した。
「死んだと思ったら、それでは其方《そち》が育てていたのか」
伊右衛門はうれしそうにその嬰児をお岩の手から執った。同時にたくさんの鼠が出た。伊右衛門は驚いたひょうしに抱いていた嬰児を執り落した。嬰児は畳の上にずしりと云う音をたてた。それは石地蔵であった。其の時傍にいた母のお熊《くま》がきゃっと云ってのけぞった。お熊の咽喉ぶえにお岩が口をやっているところであった。
「おのれ」
伊右衛門は刀を抜いて其の辺《あたり》を狂い廻ったが、気が注《つ》いた時には、己《じぶん》を捕えに来ている大勢の捕手を一人残らず斬り伏せていた。伊右衛門は其のまま其処《そこ》を走り出た。と、其の眼の前へ、
「伊右衛門待て」
と云って駈け出して来た者があった。それは与茂七であった。
「其の方は与茂七か」
伊右衛門はきっとなって身がまえした。与茂七は刀を脱いた。
「お袖のためには義理の姉、お岩の讐《かたき》じゃ、覚悟せよ」
「なにを」
伊右衛門は与茂七を斬り伏せようとした。と、何処からともなく又|数多《たくさん》の鼠が出て、伊右衛門の揮《ふる》っている刀にからみついた。其のひょうしに伊右衛門は刀を執《と》り落した。其処を与茂七が、
「おのれ」
と云って肩から斜《はす》に斬りおろした。伊右衛門の体は朱《あけ》に染まって雪の上へ倒れた。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集 物語篇」改造社
1938(昭和13)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング