だろう」
「おい、これ、馬鹿な事を云うな、世間には幾何《いくら》でも同じ物があらあな」
 直助はそれから質屋へ往こうとした。お袖は其の手にすがった。
「衣服は違ってても、櫛はたしかに姉さんの櫛、どうぞ、そればっかりは」
「てめえも馬鹿律気《ばかりちぎ》な。だいち死んだ所天《ていしゅ》へ義理をたてて」
 お袖は直助にせまられても与茂七の讐《かたき》が見つかるまではと云って夫婦にならずにいるところであった。お袖はやがて夕飯の準備《したく》に庖厨《かって》へ往った。直助は其の間に質屋へ往くべく門口へ出た。と、其の時傍の盥に浸けてある衣服の中から、痩せ細った手がぬっと出て直助の足をつかんだ。直助は顫《ふる》えあがって手にした櫛を落とした。と、盥の手が引込んだ。
「今のは、たしかに女の手だ」
 直助が考えこんでいるところへ、お袖が膳を持って出て来たが、直助が落としてある櫛を見つけた。
「姉さんが、大事がらしやんす櫛じゃと云うに、こんなにして」
 お袖は櫛を拾いあげたが、やっぱり米屋のことも気になるのであった。
「栄耀《えよう》につかうではなし、姉さん借してくださいよ」
 と云って直助を質屋へやろうとした。そこで直助は、
「そうか、それじゃ往って来ようか」
 と云ってお袖から櫛を取ろうとした。と、また盥の中から痩せた手が出て直助の櫛を持った手をつかんだ。
「あ」
 直助は驚いてまた櫛を投げだした。が、それはお袖には見えなかった。
「おまえさん、何をそんなに。櫛を何処へやったのですよ」
「盥の中にあらあな、おまえが持ってくがいいや」
 お袖は盥の中を覗きこんだが、櫛らしいものは見えなかった。お袖はちょっと其の辺へ眼をやった後で、そっと彼《か》の衣服《きもの》をつかんで振って見た。盥の水は真赤な生なましい血に変わっていた。お袖はびっくりした。と、其の中から一匹の鼠が、彼の櫛をくわえたまま飛びだした。直助はすぐそれを見つけた。
「鼠が、鼠が」
 鼠は仏壇へ往って啣《くわ》えていた櫛を置くなり消えてしまった。

       一〇

 お袖は按摩の宅悦からお岩が伊右衛門のために殺されて神田川に投げこまれたと云うことを聞いて驚いた。それも姉が小平と不義をしたと云って、小平とともに杉戸へ打ちつけられたと聞いては、泣くにも涙が出なかった。直助はお袖を慰めた。
「憎い奴は伊右衛門じゃ、まあ気を落とさずに時節を待つがいい、きっと俺が讐《かたき》を打ってやる」
 お袖は手酌で一ぱい飲んでそれを直助にさした。
「さ、一つ飲んでくださんせ」
 直助は盃を執ってお袖に酌をしてもらった。
「これは、御馳走。それにしても女の身では、酒でも飲まずにはいられまい、他人のおれでさえ」
「其の他人にせまいために、女のわたしからさした盃」
「そうか」
「もし、もう祝言はすんだぞえ、親と夫の百ヶ日、今日がすぎれば、今宵から」
「そんならおぬしは」
「操を破って操をたてるわたしが心」
 二人は立ててある屏風の中へ入ったところで、表の戸をとんとんと叩く者があった。直助が頭をあげた。
「何人《たれ》だ」
 声に応じて外から男の声がした。
「すまねえが、線香を一|把《わ》もらいたい」
 直助は忌《いま》いましかった。直助は吐きだすように云った。
「気のどくだが、品ぎれだよ」
「それなら、此処にある樒《しきみ》でけっこうだ」
「だめじゃ、そりゃ一本が百より安くはならねえ、他へ往って買わっしゃるがいい」
 外の男はちょっと黙ったが、すぐあわてて声をたてた。
「あれ、あれ、盗人《ぬすっと》が洗濯物を持って往くわ」
 直助は飛び起きて雨戸を開けた。其処に一人の男が立っていた。
「これはどうも、つい置き忘れておりまして」
 直助は洗濯物を執って入ろうとして対手《あいて》に気が注《つ》くなり、のけぞるようにして驚いた。
「鬼《ゆうれい》だ、鬼だ」
 直助は家の内へ飛びこんで、ぴしゃりと雨戸を締めて押えた。お袖も驚いて出て来た。
「何処に、何処に鬼《ゆうれい》が」
 其の時外の男の声がした。
「わたしは鬼《ゆうれい》じゃない、此処を開けてくだされ。お眼にかかれば判ります」
 お袖が其の声を聞きつけた。
「どうやら、聞きおぼえのある声じゃ」
 直助が手を揮《ふ》った。
「いけねえ、それが鬼《ゆうれい》じゃ」
「それでも」
 お袖は首をかしげながら起きて往って雨戸を開けた。外の男は与茂七であった。
「おや、おまえは、与茂七さん」
「お袖か、わしは、おぬしの所在を探しておったが、かわった処で、はて面妖《めんよう》な」
「わたしよりおまえさんは、いつぞやの晩、観音裏の田圃道で人手にかかって」
「あれか、あれなら奥田庄三郎だ。彼《あ》の晩、おめえと別れて、庄三郎に逢い、すっかり衣裳をとりかえた」直助の方を見て、
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