《いりあい》の鐘がわびしそうに響いて来た。深編笠《ふかあみがさ》に顔をかくした伊右衛門は肩にしていた二三本の竿をおろして釣りにかかった。
 傍には鰻掻《うなぎかき》になっている直助がいて、煙草を飲みながら今のさき鰻掻にかかって来た鼈甲《べっこう》の櫛を藁で磨いていた。伊右衛門はそれを見て、煙草を出して火を借りようとした。
「火を借してもらいましょう」
 直助はすまして煙管《きせる》の火を出した。
「お点けなされませ」そして笠の中を覗いて、「伊右衛門さんお久しゅうござります」
 伊右衛門は驚いた。
「そう云うてめえは、直助か」
「其の直助も、今では鰻掻の権兵衛」
 話のうちに標《うき》がびくびく動きだした。伊右衛門はそれと見て竿をあげると小鮒《こぶな》がかかっていた。
「ああ、鮒か」
 其のうちに他の標が動きだした。
「そりゃ、またかかった」
 伊右衛門は調子にのって大きな声をしながらあげた。それには鯰《なまず》がかかっていて草の上へ落ちた。伊右衛門はあわてて傍にあった卒塔婆《そとうば》を抜いて押え、魚籃《びく》に入れるなり卒塔婆を投げだした。卒塔婆は近くに倒れて気を失っていた女乞食の前へ落ちた。それはお梅の母親のお弓であった。お弓は伊右衛門に復讐するために、伊右衛門の所在《ありか》をさがしているところであった。お弓は卒塔婆を取りあげた。其の卒塔婆には俗名民谷伊右衛門と書いてあった。それは伊右衛門の母親が殺人の大罪を犯した我が子のために、世間をごまかすために建てたものであった。
「や、戒名《かいみょう》の下に記した此の名は、父《とと》さんと娘を殺した悪人の名、それではもう此の世にいないのか」
 伊右衛門はそれを知った直助にあいずをした。そこで直助はお弓のあいてになった。
「生きてる者に、なんで卒塔婆をたてる、伊右衛門が死んでから、今日でたしか四十九日」
 お弓は無念でたまらないようにした。伊右衛門はそろそろと起《た》って往って、いきなり足をあげてお弓を蹴《け》った。お弓はひとたまりもなく川へ落ちて水音をたてた。直助が感心した。
「なるほど、おまえは、悪党だ」
 伊右衛門はにやりと笑った。
「これもおぬしに習ったからよ」
 此の時長兵衛が頬冠《ほおかむり》してきょろきょろとして来たが、伊右衛門を見つけた。
「民谷氏、此処にござったか」
 名を云ってはいけなかった。
「これさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
 伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあった菰《こも》が落ちた。其処には水で腐ったお岩の骨ばかりの死骸があった。伊右衛門は恐ろしいので杉戸を前へついた。杉戸は其のひょうしにばったりと裏がえしになった。裏には首へ藻のかかった小平の死骸があった。

       九

 お袖は山刀を持ってせっせと樒《しきみ》の根をまわしていた。其処は深川法乗院《ふかがわほうじょういん》門前で俗に三角屋敷と云う処であった。お袖は直助といて線香を売っているところであった。
 淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の衣服《きもの》が風にひるがえり、其の傍の井戸端には盥《たらい》があって、それにはどろどろになった女物の衣服が浸けてあったが、それは金子屋《かねこや》と云う質屋の手代の庄七《しょうしち》が、質の流れだと云って洗濯物を頼んで来ているものであった。お袖は気になることがあるのか樒の根をまわすことをやめて、盥の傍へ往き、
「此の衣服《きもの》にはどうも見覚えがある、これはたしかに姉《あね》さんの」
 其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、干物《ほしもの》を入れねえか」
 直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、後《のち》までと軽《かる》う云っておいたよ」
「そうか」そして考えついて叺《かます》の莨入《たばこいれ》から彼《か》の櫛を出して、「此の櫛なら、いくらか貸すだろう」
 お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、猿子橋《さるこばし》の下で鰻掻にかかったが、てめえ、何か見覚でもあるのか」
「ある段か、これは姉《あね》さんが、母《かか》さんの形見だと云って、大事にしていた櫛。それに庄七さんに頼まれた彼《あ》の衣服《きもの》と云い、どうしたこと
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