、また晩方に来ますから」
 世高の話の中途から老婆は頻りにうなずきだしていた。
「そりゃ、ほんとでしょうね、お嬢さんが相公のことをほめたのは」
「ほんとですとも」
「ほんとならお嬢さんに言ってもいいのですが、いいかげんのことだったら、私が二度とお嬢さんにお眼にかかることができないのですからね」
「そりゃ大丈夫ですよ、どうかお嬢さんに取りついでください」
「では往ってあげてもいいが、こんなことは縁ですから、縁がなかったらできないことだと思ってくださいよ」
「縁がなければしかたがないですとも」
 世高は老婆と後刻を約して自分の家へ帰った。

 老婆の施十娘は、文世高からもらった銀子をしまい、午飯を喫《く》って、新しくできた花粉《おしろい》と珍しい花簪児《かんざし》を持って劉家へ往った。
 劉家では彼方此方していた夫人が、勝手口から入ってきた施十娘を見つけた。
「お婆さん、この比《ごろ》はちっともこないじゃないかね、どうしたのだね」
「あいかわらず、貧乏せわしいものですから、つい御無沙汰いたしました、今日は珍しい花簪児がまいりましたから、お嬢さんに御覧に入れようと思いまして」
「ああ、そうかね、それはいい、お前さんのくるのを待っていたところだよ」
 そこで老婆は一杯の茶をもらって、それを飲んでから秀英の繍房《へや》へ往った。秀英はその時楼の欄干に靠《もた》れてうっとりとしていた。それは昨日見た若い秀才の顔を浮べているところであった。
「お嬢さん、今日は」
 老婆が声をかけると秀英はびっくりしたようにして振りかえった。
「ああ、お婆さんか、いらっしゃい、お婆さん、この比ちっともこないじゃないの、今日は何か佳いものがあって」
「今日は佳いものがございましたから、御覧に入れようと思って、持ってあがりました」
 老婆は卓の上へ包みを置いて、その中から金の梗《みき》で銀の枝をした一朶《いっぽん》の花簪児を執って秀英の頭へ持っていった。
「きっとお似合いになりますよ」
 そして黒いつやつやした髪に挿してから、
「ほんとによくお似合いになりますこと、いっそのこと、そのつむりで、御婚礼なされて、この年寄にお喜びの盃をいただかしてくださいましよ」
 秀英はにっと笑って老婆の顔を見た。と、そこへ女中の春嬌《しゅんきょう》が茶を持ってきた。老婆はそれをもらって飲みながら言った。
「このお茶よりか、早くお喜びのお酒をいただきたいものでございますね、私は平生《いつも》お嬢さんがお眼をかけてくださいますから、その御恩報じに、佳いお婿さんをお世話いたしたいと思うておるのでございますよ」
「いやなお婆さん」
 口ではそう言ったが決してそれを嫌うような顔ではなかった。老婆はそっと四辺《あたり》に注意した。春嬌ももういなくなって秀英と自分の他には何人もいなかった。老婆は秀英の傍へぴったり寄って往った。
「お嬢さん、ちょっとお耳に入れたいことがございますが、お話ししてもよろしゅうございましょうか」
「どんなこと、いいわよ、お婆さんの言うことなら」
「では申しますがね、お嬢さん、あなたは昨日、ここからお池の傍へ来て立ってた方を、御覧になりはしませんでしたか」
 そう言い言い老婆は相手の顔色を伺った。秀英の瞼は微に紅くなった。
「見ないわ」
 しかし、それはほんとうに見ない返事ではなかった。
「でもお嬢さん、その方が今日私の処へまいりまして、昨日お嬢さんがここにいらっしゃるのを見かけて、そのうえお嬢さんからお声をかけられたと言って、ひどくお嬢さんの御標格の佳いことをほめておりましたよ」
 秀英は耳まで紅くしてしまった。老婆はここぞと思った。
「あの方は、蘇州の方で、文という方ですよ、才智があって学問があって、人品はあんなりっぱな方ですから、お嬢さんのお婿さんにしても、恥かしくないと思いますが」
 老婆はそう言って秀英の顔を見た。秀英は俯向いたなりに微に笑った。老婆はもう十中八九までは事がなったと思った。
「あの方は、お嬢さんにお眼にかかってから、お嬢さんのことを思いつめて、何回も何回も私の処へまいりまして、お嬢さんに、私の思っていることをつたえてくれと申します、どうかお嬢さん、何か返事をしてやってくださいましよ、ほんとにお気のどくですよ」
「でも、私、どう言っていいか判らないのですもの」
 秀英はそう言ってちょっと詞を切ったが、
「あの方は、これまで結婚したことがあるのでしょうか」
 老婆はすかさずに言った。
「ありません、そんな方なら決して私が媒人はいたしません、あの方はそんな軽薄な方ではありません、ほんとにあの方は、人品と申し御標格と申し、お嬢さんとは似あいの御夫婦でございますから、お取り持ちいたすのでございます、私にまかしていただけますまいか」
 秀英は点頭《うなず》
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