断橋奇聞
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宝叔塔《ほうしゅくとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|香勾《こうこう》を看よ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]を通って
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 杭州の西湖へ往って宝叔塔《ほうしゅくとう》の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]を通って孤山に遊んだ者は、その長※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋《きんたいきょう》であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。
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 元の至正年間のこと、姑蘇《こそ》、即ち今の蘇州に文世高《ぶんせいこう》という秀才があったが、元朝では儒者を軽んじて重用しないので、気概のある者は山林に隠れるか、詞曲に遊ぶかして、官海に入ることを好まないふうがあった。世高もその風習に感化せられて、功名の念がすくなく、詩酒の情が濃《こまや》かであった。
 その時世高は二十歳を過ぎたばかりであったが、佳麗な西湖の風景を慕うて、杭州へ来て銭塘門《せんとうもん》の外になった昭慶寺の前へ家を借りて住み、朝夕湖畔を逍遥していた。ある日往くともなしに足に信《まか》せて断橋へ往ったところで、左側に竹林があってその内から高い門が見えていた。近くへ往って見るとその門には喬木世家《きょうぼくせいか》という※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]《がく》をかけてあった。
 世高は物好きにどんな庭園であるか、それを見てやろうと思って入って往った。槐《えんじゅ》と竹とが青々した陰を作った処に池があって、紅白の蓮の花がいちめんに咲いており、その花の匂いがほんのり四辺《あたり》に漂うているように思われた。世高はその庭の景致《けいち》がひどく気に入ったので、池の縁に立って佳い気もちになっていた。
「おや、綺麗な方だわ」
 若い女のすこしはすっぱに聞える無邪気な声が不意に聞えてきた。世高の眼はすぐ声のしたと思われる方へ往った。池の左、そこにある台※[#「木+射」、第3水準1−85−92]《だいしゃ》の東隣となった緑陰の中に小さな楼《にかい》が見えて、白い小さな女の顔があった。それは綺麗な眼のさめるような少女であった。
 世高は女のほうをじっと見た。そうした少女から己れの容姿を見とめられて、多感な少年がどうして平気でいられよう。彼は吸い寄せられるようにその方へ往きかけたが、ふと考えたことがあったので引返して門の外へ出た。それはその少女の素性を訊くがためであった。
 花粉《おしろい》や花簪児《かんざし》を売っている化粧品店がそのちかくにあった。そこには一人の老婆がいて店頭《みせさき》に腰をかけていた。世高はそこへ入って往った。
「すみませんが、すこし休ましてくれませんか」
 老婆は気軽く承知した。
「さあさあ、どうぞ、だが、あげるような佳いお茶がありませんよ」
 世高は老婆の信実《まこと》のある詞《ことば》が嬉しかった。彼は老婆に挨拶して腰をかけながら言った。
「お婆さんは、何姓ですか」
「今は施《し》姓ですが、母方のほうは李姓ですよ、所天《ていしゅ》が没《な》くなってから十年になりますが、男の子がないものだから、今にこうしております。私の所天の排行《はいこう》が十に当るから、人が私を施十娘《しじゅうじょう》というのですよ、あなたは」
「私は姑蘇の者で、文というのです、この西湖の山水を見にきて遊んでいるのですよ」
「では、あなたは風流の方ですね」
 世高は老婆がただの愚な田舎者でないことを知って、ものを訊くにもつごうがいいと思った。
「お婆さん、この隣に大きな門の家がありますね、あれはどうした家ですか」
「ありゃあ、劉万戸《りゅうまんこ》という武官の家ですよ、あんな大家だが、男のお子がなくて、お嬢さんが一人あるっきりですよ、秀英さんとおっしゃってね、十八になります、まだお嫁いりなさらないのですよ」
「十八にもなって嫁にゆかないとは、どういうわけでしょう、そんな家で」
「そりゃあね、お嬢さんが御標格《ごきりょう》が佳いうえに、発明で、詩文も上手におできになるから、相公《だんな》がひどく可愛がって、高官に昇った方を養子にしようとしていらっしゃるものだから、それに当る人がのうて、まだそのままになっておりますが、だんだんお歳がいくので、お可哀そうですよ」
「お婆
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