さんは、そのお嬢さんを知っているのですか」
「お隣ではあるし、平生《いつも》出入して、花粉《おしろい》などを買っていただくから、お嬢さんはよく知っておりますよ」
「そうですか」
 世高はふとあまりせっかちに事をはこんではいけないと思いだした。で、女にはさして興味を感じていないようなふうをして、それから老婆に別れて帰ってきた。

 世高は帰りながら女に接近するには、あの老婆に仲介を頼むより他に途がないと思った。それには女の手一つでやつやつしくくらしているから、すこし金をやれば骨をおってくれるだろう、仲介者さえあれば、女の方でも自分を知ってくれているから、僥倖が得られないものでもないと思った。彼はそう思いだす一方で、女が自分に向って発した詞を浮べていた。
(おや、綺麗な方だわ)
 世高は昭慶寺の前の家へ帰ったが、女のことで頭がいっぱいになっていて、書籍《ほん》を見る気にもなれなかった。そして、夜になって榻《ねだい》の上に横になっても、女の白い顔がすぐ前にあるようで睡られなかった。
 そのうちに、世高の体は自然とうごきだして、家の外へ出て城隍廟《じょうこうびょう》へ往った。城隍廟へ往ったところで、世高ははじめて気が注《つ》いた。気が注くとともにかの女と天縁があるかないかを知りたいと思いだした。彼は廟の中へ入って往って、香を焼《た》き、赤い蝋燭をあげて祷った。
 みるみる城隍神の像が生きた人のようになって、傍の判官に言いつけて婚姻簿《こんいんぼ》を持ってこさした。判官が言いつけどおり帳簿《ちょうめん》を持ってくると、城隍神はそれを見てから朱筆を取り、何か紙片に文字を書いて世高にくれた。世高は何を書いてあるだろうと思って、それに眼をやった。それには爾《なんじ》婚姻を問う、只|香勾《こうこう》を看よ、破鏡重ねて円《まどか》なり、悽惶好仇《せいこうこうきゅう》と書いてあった。
 世高がそれを読み終ったところで、判官の喝する声がした。世高はびっくりして眼を覚した。世高ははじめて自分が夢を見ていたということを悟ったが、それにしてもはっきり覚えている四句の讖文《しんぶん》は不思議であると思った。世高はそれから讖文の破鏡重ねて円なり、悽惶好仇という二句の意味を考えてみた。それは合うことが有って離れ、離れることが有って合うから、時のくるのを待たなくてはならないというように考えられた。
 しかし世高は、そんな児戯に類する讖文を信ずることはできなかった。彼は夜の明けるのを待ちかねるようにして起き、そこそこに飯をすまして、断橋の施十娘の店へ往った。
 店では老婆が品物を並べていたが、終ってひょいと顔をあげたひょうしに、店頭へ来た世高を見つけた。
「相公《だんな》、お早いじゃありませんか、何か御用でもできたのですか」
「お婆さんに頼みたいことがあってね」
 世高は店の内へ入った。老婆はどんなことを頼まれるだろうと、その頼まれることが気になってたまらないというようにして顔を持ってきた。
「私に、どんなことです、か、ね」
「すこし頼みたいことがあって、ね」
 世高は懐から金を出して、それを老婆の袖の中にすばしこく入れた。それは二錠の銀子であった。
「お婆さん、私はまだ妻室《かない》がないから、媒人《なこうど》をたのみたいが」
 老婆には世高の眼ざしている者が何人《だれ》であるかということはすぐ判った。しかし、それは旅にいる無名の秀才では望みを満たすことのできないものであった。老婆はとぼけて言った。
「相公の頼みたいというのは、どこの姐姐《むすめ》さんですか」
「それかね、それは、昨日お婆さんが話してくれた、あの、劉さんの姐姐さんだよ」
 世高はきまりがわるいのできれぎれに言った。
「そいつは相公、だめですよ、他の姐姐さんなら、なんとか話を纏めますが、劉さんの方ですと、劉の相公はいっこくですから、杭州の城内の武官の中で、だんだん申しこんでおりますが、しょうちしないのです、それに旦那は旅の方でしょう、とてもだめですよ」
 老婆はそう言って世高の入れた袖の中の銀子を取りだした。
「これはお返しします、とてもできませんから」
「ま、まってください、まだ一つお話しすることがあるから、それを訊いてからにしてください」
 世高は老婆の金を持った手を押えるようにして、その口を老婆の耳の傍へ持っていった。
「お婆さん、私がこんなことをいうのは、お嬢さんを知らずに言ってるんじゃないのです、昨日ここへくる前に、あの家の中へ往って、庭を見物していると、お嬢さんが楼《にかい》の上にいて、私を見て、おや綺麗な方だわと言ったのです、だからお嬢さんも私を知ってるはずです、そっとお嬢さんに遇って、そんなことがあったかないかを確かめたうえで、私もお嬢さんのことを思っているということを言ってください
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