いた。老婆は安心した。
「では、あの方に知らして、喜ばしてあげましょう」
 老婆は品物を包みの中に収めて帰ろうとした。秀英はその老婆の袂に手をかけた。
「お婆さんは、このことは、何人にも言っちゃ、厭よ」
「言うものですか」

 老婆は夫人にも挨拶して家へ帰った。店へはもう世高が来て待っていた。世高は入ってくる老婆の顔色を見て事のなったことを直覚した。世高はそこで秀英に詩を寄せることにして家へ帰って往ったが、その夜も興奮して眠られなかった。
 そして、朝になるのを待ちかねていた世高は、白綾の汗巾《はんけち》へ墨を濃くして七言絶句を書いた。
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天仙なお人の年少を惜む
年少|安《いずくん》ぞ能く仙を慕わざらん
一語三生縁已に定まる
錦片をして当前に失わしむること莫《なか》れ
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 世高はその詩を施十娘の店へ持って往った。
「お婆さん、どうかこれを届けてください、そして、お嬢さんから返事をもらってください、後でうんとお礼をしますよ」
 老婆はその詩を袂へ入れ、花粉や花簪児の荷を持って劉家へ往った。そして、勝手口から入って夫人に言った。
「昨日、お嬢さんに、佳い花簪児を選んでいただきましたが、今日はそれよりも佳い品が見つかりましたから、持ってあがりました」
 老婆はそう言って夫人の前をつくろって、秀英のいる楼上《にかい》へ往った。楼上には秀英が榻《ねだい》の上に横になっていた。老婆はずかずかとその傍へ往った。
「お嬢さん、昨日は失礼いたしました」
 老婆は袖の中からかの詩を出して秀英の手に置いた。秀英はそれに眼をやった。
「佳い詩だわ、ね、え」
「どうか、それに次韻《じいん》してくださいまし、あの方がそれを待っておりますから」
 秀英は詩から眼を放してにっと笑った。
「私にはできないのだもの」
「そんなことをおっしゃらずに、願います」
「そう」
 秀英は傍の箱のなかから自分で繍《ぬい》をした汗巾を出してきて、それに筆を染めた。
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英雄自ら是れ風雲の客
児女の蛾眉《がび》敢て仙を認めんや
若し武陵|何処《いずれのところ》と問わば
桃花流水門前に到《いた》れ
[#ここで字下げ終わり]
 老婆はその詩を見て世高を秀英の許へやってもいいと思った。老婆は秀英にその意を含めた。しかし、秀英にはどうして来る人を迎えていいか判らなかった。
「今晩、遅く皆さんが寝静まった時に、花園の中の、あの石のある処へいらして、そこの樹へ索《なわ》を結《ゆわ》えて、その端を牆《へい》の外へ投げてくださるなら、あの方がすがってあがりますよ」
「では鞦韆《ぶらんこ》の索を投げましょうか、あすこに大きな樹があるから、それを結えましょうか、牆からあの樹を伝うなら、わけなくこられるのですよ、でも、あの樹は枯れかかってるからあぶないのですよ」
「いいでしょう、そんなことは、男の方ですから」
 そこで話ができたので老婆は帰ろうとした。秀英はそこへ繍鞋児《くつ》を出してきた。
「これをどうか、あの方に、ね」
 老婆は詩と繍鞋児を袂へ入れ荷物を持って帰ってきた。

 老婆の店に待っていた世高は、両手で拳をこしらえて耐えなければ、気でも違いそうに思われるような喜びに包まれた。彼は一度家へ帰って、夜になるのを待ち、新しい衣服《きもの》に著更えて再び老婆の許へ往った。
 老婆は時刻をはかって世高を裏門口へ伴《つ》れて往った。そこには青白い月の光があった。二人はその光に映しだされないようにと暗い処へ身を片寄せていた。
 微な物音がして索の端が劉家の牆の上から落ちてきた。それは鞦韆の索であった。老婆は無言で世高を促した。
 世高はその索に手をやってちょっと引き嘗《こころ》みてから攀《のぼ》って往った。世高の体はやがて牆の上になったがすぐ見えなくなった。老婆はそれを見ると世高が首尾よく劉家へ入れたと思ったので、裏門を閉めて引込んでしまった。
 世高は牆の上からそこに枝を張っている老樹の枝に移って、そろそろと下の方へおりて往った。おりてゆくうちにその枝が折れてしまった。世高はそのまま下へ墜ちたのであった。
 鞦韆の索を投げて世高の来るのを待っていた秀英は、月の光に世高が牆の上にあがってきて、それから老樹の枝に移ったのを見て喜んだが、喜ぶまもなく世高が墜ちたので、気を顛倒さして走って往った。
 世高は棲雲石《せいうんせき》の上に倒れていた。秀英はそれに手をかけた。
「もし、もし、お怪我をなされたのではありませんか」
 世高は返事もしなければ動きもしなかった。耳を立てても呼吸もしなかった。秀英は慌てて世高の体を彼方此方と撫でたが、体は依然として動かなかった。
 暗い谷底につき落されたようになった秀英の頭に、世高の屍から起る両親の譴責が浮ん
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