南へ往こうじゃないか」
竹青は魚を漢水の方へ伴れて往こうとした。
「西へ往こうじゃありませんか」
その相談ができないうちに二人は眠ってしまった。そして、魚が眼を醒していると女はもう起きていた。魚は眼を開けて四辺《あたり》を見た。立派な家の中に燭の光が輝いていた。そこはどうしても舟の中ではなかった。魚はおどろいて起きて、
「此所は何所だね」
と訊いた。女は笑って言った。
「此所は漢陽《かんよう》ですよ、私の家はあなたの家じゃありませんか、南へ往かないたっていいでしょう」
そのうちに夜が明けはなれた。侍女や媼《ばあや》達が集まってきて酒の準備《したく》をした。そこで広い牀《とこ》の上に小さな几を据えて二人がさし向いで酒もりをした。魚は、
「僕《げなん》は何所にいるだろう」
と言って訊いた。竹青は、
「舟にいるのですわ」
と言った。魚は船頭が長く待ってくれないだろうと思った。
「船頭はどうしたかなあ」
竹青は言った。
「いいのです、私から礼をしますから」
そこで魚は竹青と夜も昼も酒もりして帰ることを忘れていた。
舟の中にいた船頭は翌朝眼を醒してみると、漢陽の市《まち》が見えるので腰をぬかさんばかりに駭いた。僕は僕で主人の室へ往ってみると主人がいないので、さがしてみたが杳として手がかりがなかった。そこで船頭は舟を出そうとしたが纜《ともづな》の結び目が解けないので、とうとう僕といっしょにおることにした。
二箇月すぎてから魚はふと帰りたくなった。そこで竹青に言った。
「いつまでもこうしていると、親類にも忘れられてしまうし、それにだいいち、お前は私と夫婦になってるが、一度も私の家を見ないというのはいけないよ」
竹青は言った。
「私は漢陽にいなくてはならないから、とても往けないですが、たとい往くことができても、あなたのお宅には奥さんがおありでしょう、私をどうなさるのです、それより私を此所に置いて、別宅にしたほうがよくはありませんか」
魚は道が遠いのでとても時どきはこられないと思った。
「漢陽は遠いからなあ」
女は起って往って黒い衣服を出してきて言った。
「あなたがいつか着ていた着物があります、もし私を思ってくださるときには、これを着てください、此所へいらっしゃることができるのです、いらしたら私がお脱がせします」
そこで珍しい肴をこしらえて魚のために送別の
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